日本初のヌードポスターで宣伝

信治郎は丸善から外国雑誌をどしどし購入し、「サタデー・イヴニング・ポスト」を欠かさず購読するモダンな人物だった。デザインについては人並み外れた熱意を持ち、森永製菓から引き抜いた広告の奇才・片岡敏郎とともに、大正11年(1922年)には日本初となるヌードポスターを制作。モデルは寿屋が結成したオペラ団「赤玉楽劇座」のプリマドンナ、松島栄美子だった。上半身を露出した女性がワイングラスを手にするポスターは世間の度肝を抜いた。

日本初のヌード広告ポスター「赤玉ポートワイン」。1922年(大正11年)。片岡敏郎撮影、モデルは松島恵美子。
日本初のヌード広告ポスター「赤玉ポートワイン」。1922年(大正11年)。片岡敏郎撮影、モデルは松島恵美子。(写真=北原照久コレクション/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

大正後期には赤玉ポートワインは国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長。「マッサン」で鴨居商店が「太陽ワイン」のヌードポスターで起死回生を図るエピソードは、この史実に基づいている。

赤玉の成功で資金を得た信治郎は、本格的な国産ウイスキーの製造に乗り出す。当時、ウイスキーは英国でしか造れないとされ、周囲の反対は圧倒的だった。信治郎はロンドンに赴任する三井物産の中村幸助に醸造技師の招聘を依頼。半年後、醸造学の権威ムーア博士が日本行きを承諾したとの便りが届いた。

鳥井と“マッサン”との出会い

信治郎はムーア博士の指示に従い、北海道から九州まで全国各地を調査。これはという土地が見つかるたびに水をスコットランドに送り、水質検査と試験醸造を繰り返してもらった。大正12年(1923年)春、ついに一つの土地が浮かび上がった。大阪と京都の境界線にある山崎である。北に天王山を背負い、木津川・桂川・宇治川の三川が合流する湿潤な環境は、スコッチウイスキーの故郷ローゼス峡付近の風土によく似ていた。

ところが来日が近づいた頃、ムーア博士は仲間から意外な話を聞く。スコットランドでウイスキー製造を学んだ日本人がいるというのだ。博士は考えた。ウイスキー技師はディスティラー(蒸留技師)とブレンダー(調合技師)に分かれ、ブレンドの技は才能がすべてで誰も教えない。この日本人が真面目に取り組んだなら蒸留については一応のところまで行っているはず。あえてこの日本人に賭けてみてはどうか――。その人物こそ、「マッサン」で玉山鉄二が演じる亀山政春のモデル・竹鶴政孝(1894~1974年)だった。

信治郎は竹鶴に年俸4000円という破格の条件を提示した。大学卒の月給が40〜50円の時代、スコットランドから技師を招くつもりで用意していた額と同じだった。当時の人件費の1000円が約259万円だとすると、年収1000万円超という計算になる。「マッサン」では鴨居が政春を熱烈にスカウトする場面が印象的だが、史実でも信治郎が竹鶴の元を直接訪ねて口説いたとされる。