Googleカレンダーが刻む時間

こんなふうに想像してみるとわかるのは、私たちは、スムーズで滞りのない一定の流れの中に存在するわけではないことだ。〈私たちが生きている時間〉は、子どもの泣く声や、誰かからの呼びかけ、自身の疲労などによって刻まれる、寸断された時間である。

一方で、締め切りによって作り出される、〈締め切りの時間〉もある。期日までに間に合わせなければならない時間。それは外から押し付けられた時間でもある。締め切りは私たちを特定の時間の流れにギュっと押し込む。〈締め切りの時間〉は、私たちの〈生きている時間〉とは異なる時間の流れであり、多かれ少なかれ無理をしなければ合わせられないような時間だ。

たとえば私たちは、Googleカレンダーを用いて打ち合わせを管理する。一定の時間になると、打ち合わせや作業が始まることが告げられる。Googleカレンダーが時間を刻んでいるのだ。Googleカレンダーのような装置は、他にもたくさんある。腕時計も、キッチンタイマーも。過去に目をやれば、鐘やチャイムなども。こうした、時間を作り出す制度・装置・行為を〈時計〉と呼ぶとすれば、締め切りとは間違いなく〈時計〉の一種である。

カレンダー
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「卵が2回茹で上がるまで」で時間を表していた

社会学者や歴史学者の議論によれば、近代化の進展とともに「時計時間」とも呼べるような線形的・均質的な時間意識が支配的になったとされる。前近代的社会では農耕などの理由から循環的な時間意識(四季の再生や祝祭のサイクルなど)が強かったが、一定の因果系列や始点―中間―終点的な構造を特徴とする「時計時間」が優勢になっていく。

アメリカの人類学者、デヴィッド・グレーバーは、現代と比べて過去の人々の時間が、権力者によって細かく監視・管理されていなかったことを伝えている。

なぜそんなことが可能だったのか。一定の時間を表すため、たとえば中世ヨーロッパでは、「主の祈りの3回分」、「卵が2回茹で上がるまで」等の言い回しをしていた。「時計のない場所では、時間は行為によって測られるのであって、時間によって行為が測られるのではない」(グレーバー)のである。彼らの用いていた〈時計〉は、彼らの生きている時間と、それほどは乖離していなかったのだ。これに対して、現代では、私たちの身体とは異質な〈時計〉が私たちを刻み始める。

ところで、私たちは日常会話のなかで、「ああ、今日はいい時間を過ごせたね」、「何だか時間をムダにしちゃったなあ」などと言う。全然おかしな物言いではない。普段から私たちは「いい時間」と「わるい時間」を区別している。時間はいつも価値含みなのだ。ただ客観的・中立的に流れるだけでなく、そこに価値や意味を内包している。