秀頼も生き延び、九州に逃亡?

『秀頼は薩摩で生きていた』によれば、さらに「大坂夏の陣で自刃したはずの豊臣秀頼が九州に落ち延びて島津藩に逃げていた」という。

九州に逃げ落ちたのは国松だけでなく、父・秀頼も一緒だったというのだ。

そして、鹿児島にもほぼ同じ伝承があったと紹介している。すなわち、「秀吉築城の大坂城には斥候(スパイ)などが使用するための秘密の貫道があった。落城前に毛利輝元はひそかに兵を遣わし、智将・毛利勝長は秀頼父子と近臣を救出。京都まで潜行させ、京都の川口より、島津の軍船に乗せて薩摩に落ち延びさせた。秀頼随行の家臣には有名な木村重成、後藤基綱、真田幸綱、大谷吉実、明石全登、伊木達雄等の若武者がいた。

島津領にはいった秀頼主従は、谷村の山野に一時落ち着いたが、その後島津藩主のはからいで、鶏(谿たにの誤字)山郡福元村に居住した」という。

「現在の鹿児島県谷山市(鹿児島市に合併)は昔の名を谷村といった。鶏(谿の誤字)山郡の山と谷村の谷をくっつけて現在の谷山市と替えたのである。(中略)谷山市の国鉄(JR)駅谷山から南方約1㎞半くらいのところに木下もんという部落があったらしい。(中略)夏の陣の戦いが終えてから、この谷村に約二百人以上の集団移住があった。(中略)秀頼を一介の浪人として宗蓮と号し家来数人を伴わせて谷村に安着させ、木下郷といわれる村落を起こさせたと見るべきである」
(木下俊凞『秀頼は薩摩で生きていた』)

もともと木下という村落があったか

秀頼一行が逃げ落ちたから木下郷と呼ばれるようになった――というストーリーなのだが、実際は逆なんじゃないかと思う。つまり、木下郷という名前が先にあり、「木下一族が来たから木下郷なんじゃないの?」という話が妄想され、それに尾ひれ背びれがついて秀頼伝説が生まれたんじゃないかなと。

そこで、木下郷の名のいわれが大坂夏の陣より先なのか後なのか、地名辞典で調べてみた――のだが、地名辞典の双璧、平凡社の『日本歴史地名大系』、KADOKAWAの『角川日本地名大辞典』では鹿児島県に木下という地名が見当たらなかった。

まぁ、仮にあったとしても、そもそも島津家が秀頼を匿う理由が見当たらない。同じ九州ならば、肥後熊本の加藤家(清正の子)に身を寄せるべきなんじゃないかと思うのだ。

そもそも秀頼が「本当に秀吉の実子なのか」論争があるのだが、こればっかりはわからない。

(初公開日:2026年1月12日)

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