秀頼の息子が九州に逃亡した説

なお、延俊の四男・木下延由のぶよし(1609~1658)は豊臣秀頼の遺児・国松だという異説がある。

あるテレビ番組では、延由の位牌に「豊臣」姓が刻まれていることから、秀頼の遺児である証拠と示唆する場面があったが、木下家は江戸時代も豊臣姓を名乗っており、不思議なことではない。秀吉は有力大名らに豊臣姓を与え、羽柴という苗字を名乗らせた。江戸時代になると、ほぼすべての大名が復姓して豊臣姓を名乗らなくなったが、木下家は豊臣姓を使い続けた。

伝・花野光明作「豊臣秀頼像」
伝・花野光明作、豊臣秀頼像、17世紀(画像=東京藝術大学所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』でも源姓松平氏、平姓織田氏……という並びに、豊臣姓木下氏が掲げられている。そのためもあって、先述の木下俊凞は「豊臣の子孫として、木下姓を以って存続している」と主張しているのである。

昭和に出版された本の主張とは…

その木下俊凞は、1968年に『秀頼は薩摩で生きていた』という書籍を出版している。

同書によれば、俊凞は祖母から一子相伝の秘事を伝えられた。

「相伝の伝えるところによれば、(秀頼の子)国松は真田大助(幸村の子)と共に、四国路をのがれて薩摩(鹿児島県)に至り、伊集院兼貞にかくまわれていた。(中略)伊集院地域に、国松の噂が流漏する事をおそれて、当時の日出藩に来たり藩の東南端の海岸、深江の里より日出城に入城、寄偶している。日出藩初代(木下延俊)はこれを、二代の弟として優遇し、同藩内に五千石を分知して立石藩を起こし羽柴姓を与えたのである」(木下俊凞『秀頼は薩摩で生きていた』、引用にあたり旧仮名遣いを改めた。以下も同じ)。

木下延俊は延由に1万石を与えよと遺言したが、家老・長沢市之丞は3万石の小藩で1万石を分知するのは無謀だと考え、「5000石承り申した」とガンバリ通して分知を5000石に抑えた。市之丞は主命に背いたことを恥じて切腹して果てたという。

結局、延由は寛永19(1642)年に父の遺領のうち5000石を分知されて旗本寄合となり、将軍・家光にも拝謁している。本当に延由が秀頼の遺児で、それを隠し通そうとするならば、わざわざ敵陣・江戸に赴いて、そんな危険を冒す必要はない。高禄の家臣として、国元に置いておくべきだろう。