「この住まいが気に入りすぎた」

北堀町は市街地の北隅、中心街からは離れている。それまで住んでいた大橋界隈の繁華な場所と違って、付近は昼間も人通りがなく静寂に包まれていた。落ち着いて執筆に没頭できる環境がハーンにはありがたかった。また、裏山に鬱蒼うっそうと繁る森や家を囲む風流な庭園など、大橋川や宍道湖の眺望に勝るとも劣らぬ美しい眺めがあふれている。

松江市の古写真
松江市の古写真、『島根縣寫眞帖』(写真=国立国会図書館デジタルコレクション
「私はすでに自分の住まいが、少々気に入りすぎたようだ。毎日学校の勤めから帰ってくると、まず教師用の制服からずっと着心地のよい和服に着替える。そして、庭に面した縁側の日陰にしゃがみこむ。こうした素朴な楽しみが、五時間の授業を終えた一日の疲れをやしてくれる。壊れかけた笠石の下に厚く苔蒸こけむした古い土塀は、町の喧噪けんそうさえも遮断してくれるようだ」(『新編 日本の面影』)

この家がいちばん居心地がよくて安らげる場所になっている。神戸で暮らしていた明治29年(1896)に、松江を再訪した時にはこの旧居にも立ち寄り「我が家に帰ってきた」と喜んだ。2時間以上も滞在して感慨深げに部屋や庭を眺めていたという。

ハーンが愛してやまない“我が家”。彼がここで心地よく過ごせるよう、セツも細やかな気遣いをしていた。