※本稿は、浅田すぐる『そろそろ論語 物事の本質がわかる14章の旅』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
論語が忌み嫌った「従順な態度」
私たちは今、AIの普及によって様々な業務が代替・代行されていく時代の渦中にいる。議事録や報告書の作成、顧客の動向分析、経理・会計業務、等々。定型的で、前例踏襲でOKな「従順な」仕事は、AIに取られてしまう。
では、「AI時代でも生き残れる人の条件」とはどんなものなのか。意外なことにそのヒントが、2000年以上前の書物『論語』にある。
読者の中には、『論語』は人としての生き方や、道徳的な、たとえば「親孝行をしろ」「目上の人には従順であれ」といった内容が載っている、時代遅れな書籍だと思っている人もいるかもしれない。
しかし、実は『論語』は前例踏襲・現状維持をよしとする「盲目的な従順さ」について批判をしている。それがわかるのが、以下の言葉だ。
[書き下し文]子の曰わく、郷原は徳の賊なり。
[現代語訳]先生がいわれた、「村で善い人といわれるものは、[いかにも道徳家に見えるから、かえって]徳をそこなうものだ」
[出典]第17「陽貨」篇・第13章句
批判意識のない人間は「ただの俗物」
現代語訳だけではピンとこないと思うので、私が自分なりの解釈を見出す際に参考にした、呉智英氏の『現代人の論語』(文藝春秋)から解説を引用する。
郷原とは、その村や町で立派な人物だと常識的に思われている人である。そういう人こそ実は「徳の賊」なのだ、と孔子は言明したのである。
人が理想や志を持つ時、そこには現実への批判意識がある。与えられた現実の中で与えられた道徳だけを無批判に体現し、そのことの故に地域社会から称讃されるような人物は、孔子にとって人間が具えるべき徳性を欠いた存在だった。それは理想も志もない、ただの俗物なのである。
疑うこともせずに前例踏襲、現状維持に安住する「従順さ=郷原」を、孔子は「賊」という非常にネガティブな言葉を用いて強く批判しているのだ。
私自身、社会人になって間もない頃、多くの先輩社員から「素直に言うことを聞け」「まずはスポンジのように何でも柔軟に吸収しろ」などと言われた記憶がある。同じような原体験がある人も多いのではないだろうか。孔子によれば、こうした助言は「郷原」的なアドバイスということになってしまう。

