「もう無理だ」絶望の末に
井後さんが26歳、息子が4歳になったある日のことだ。家に借金の取り立ての電話がかかってきた。
「どうも夫は、ギャンブルに使うお金を借りてはまたギャンブルで溶かして……みたいなことを繰り返していて、借金が膨れ上がってしまったようです」
この頃の夫は、数カ月帰ってこないこともザラ。借金取りの電話は頻繁にあり、家の郵便受けに、借金返済を求める手紙を入れられるようになった。
「もう無理だ」と思った井後さんは、夫の借金を義両親に相談したが、「自分たちで精一杯だから」と断られた。自分の両親に相談すると、「“デキちゃった結婚”で勝手に出て行ったくせに、都合のいい時だけ頼って来るな!」と怒鳴られ、八方塞がりに。
「私には頼るところがないんだ」と絶望した井後さんだったが、「もういい!誰にも頼らないで生きてやる!」と腹を決めた。
この時、息子が幼稚園に入園することができたのは幸いだった。息子を幼稚園の延長保育に預けて吉野家で働き、夜は息子を寝かしつけてからスナックでパート。午前3時から新聞配達をして、隙間時間を息子の送迎や家事、睡眠時間に充てた。
「仕事のコネもない。特別な経験も能力もない。そんな自分が男の人並みに稼ごうと思ったら、人よりたくさん働くしかなありませんでした」
帰ってこない夫が作った借金に加え、不足する生活費を補うため、井後さんが親戚を回って借りた分を合わせると、借金は約500万円にのぼった。それらを返済するため、井後さんは、睡眠時間を削ってがむしゃらに働いた。
朝は新聞配達、昼は吉野家、夜はスナックで
1〜2カ月はうまく回っているように思えた。だが計算上、「これで何とか借金を返済しながら生活できる!」と安心したのも束の間、3カ月経つ頃に高熱を出して動けなくなり、休まざるを得なくなってしまう。
「この時ばかりは、『なんで自分の体はこんなにも弱いのよ!』『結局、私が意地になって働いても、数カ月しか続かないんだ』と自分を責め、『自分は何をやってもダメな人なんだ』と落ち込み、涙が止まらなくなりました」
まだ20代とはいえ、未就学児を抱えながら、朝は新聞配達、昼間は吉野家、夜はスナックでバイトという生活を3カ月も続けられるのだから、「井後さんは十分体が強いほうだ」と思うのは筆者だけだろうか。
だが健康な頃はなんとかなっても、体調を崩すと人は心細くなるものだ。
当時の井後さんの夢は、「お金のことを心配しないで眠れるようになりたい」「家族一緒に揃って毎日温かいご飯が食べたい」「心から笑える生活がしたい」だった。しかし、「こんなささやかな夢さえも、私は叶えることができないなんて……」と自分が情けなくなり、苦難の現状をすべて自分のせいだと責め、自分が大嫌いになっていた。。
ところが、非情にも運命はさらなる追い討ちをかける。
賃貸マンションに住んでいた井後さんは、月約12万円の家賃を3カ月分滞納していた。2000年12月、大家さんから、「溜まっている家賃をお支払いいただけないなら、今年いっぱいで強制退去していただきます」と通告された。
当時の井後さんは、電気、ガス、水道料金も滞納しており、それらを止められるのも時間の問題だった。夫はもう半年以上帰ってこず、連絡さえよこさない。相変わらず借金取りからの電話は頻繁にあり、毎日怯えて暮らしていた。
「ここまできたらいっそのこと、路上生活者になってやる!」
と半ばヤケクソで投げやりになりかけた井後さんだったが、時は極寒の12月。「まだ5歳の息子を、寒さと飢えで失ってしまうかもしれない」と思い直し、投げやりな気持ちを頭の中から消し去った。そして、
「このままでは夫の借金まで払わされてしまう。泣いていても何も変わらない。とにかく行動しよう!」
そう思った井後さんは、以前、夫婦喧嘩の際に夫に書かせた離婚届を役所に提出。その足で近所の不動産屋に駆け込んだ。

