唯一の跡継ぎを失い、子作りに励んだ?
この時期のねねは、正妻として辛い立場に晒されていたと思われる。結婚してから15年近く経つが、秀吉との間に子ができなかった。すでに彼女は28歳。当時にあっては、初産には厳しい年齢といえた。
ちなみに秀吉は、ずっと子供ができなかったといわれてきたが、近年の研究では、南殿との間に石松丸(のち秀勝)をもうけていたことがわかっている。
研究者の黒田基樹氏(『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書)によれば、南殿は「殿」がつくので「別妻」や女房衆のうち上臈(最高位)にあったとする。秀勝は天正4年(1576)10月に死去した可能性が高いとされるが、すでに元服していたらしく、黒田氏は、ねねとの結婚以前に南殿が秀勝を産んでいた可能性を指摘する。
秀吉に実子がいたという説は意外だが、その秀勝はちょうどねねが信長に愚痴った年に死去しているなら、跡継ぎを失った秀吉が、焦って手当たり次第に女に手をつけ、子作りに励むようになったのかもしれない。
実子はいなくても、養子を立派に育て上げた
結局、ねねが秀吉の子を産むことはなかった。ただ、秀吉が迎えた幼い養子たちを、幾人も手元で育てている。そういった意味では、血のつながりはないものの、ねねは立派な母親であった。代表的な養子としては、主君織田信長の五男・秀勝、前田利家夫妻の娘・豪、織田信雄の娘・小姫、ねねの甥・金吾(兄・木下家定の子。のちの小早川秀秋)などがいる。
小早川秀秋は、関ヶ原合戦で西軍を裏切り、戦いの最中に味方に襲いかかり、家康の勝利を決定づけたことで知られている。
ねねにとって金吾は、兄・木下家定の子、つまり甥にあたった。天正10年(1582)に生まれたとされ、4歳の天正13年にはすでに秀吉の養子として登場するので、本当に幼子のときから貰い受けたのだろう。跡継ぎに考えていた於次秀勝(信長の五男)が天正10年に死去しており、秀吉は妻ねねの甥を後継者にしようとしたのだ。
この一事をとっても、秀吉にとってねねがいかに大切な存在だったかがわかる。

