便秘を心配して「下剤を飲むといいよ」
なお金吾は、秀吉と淀殿の間に鶴松が生まれると後継者から外れるが、秀吉は鶴松から届いた手紙(家臣の代筆だろう)の返書に「両人の御かかさま」と記している。「両人の御かかさま」とは二人の母という意味。つまり秀吉は、実母の淀殿だけでなく、正妻のねねも鶴松の母としていたのだ。実子のいないねねに対する配慮だったことに加え、彼女を全面的に信頼していたのである。
弟の秀長とともに、秀吉に対するねねの貢献度は親族のなかでずば抜けていた。しかも宣教師のルイス・フロイスが「極めて思慮深く稀有の素質を備えている」と述べるほど、有能であった。
2人の関係がわかる天正13年秀吉の手紙が残っているが、そこには、
「下くだしを指し候て、少し大便おり候やうに致したく候。たゞし、大便いく日ほどおり候や。目出たき左右待ち申し候」(桑田忠親著『太閤の手紙』講談社学術文庫)
と書かれている。「下くだし」とか「大便」と言葉があるのがわかると思うが、じつはこれ、秀吉がねねの便秘を心配している手紙なのだ。「下剤を飲むといいよ。何日かして大便が出るといいね。その目出度い日を待っていますよ」という意味。
秀吉の細やかな気配りが夫婦円満の秘訣
この年、秀吉は紀州、四国、越中攻めなど各地を飛び回り、関白となって政権を樹立した。目の回るほど多忙な日々を送っていたと思われる。そうしたなか、奥さんの便秘を気遣っているわけで、夫婦円満の秘訣はどうやら秀吉の気配りにあったようだ。
ただ、ねねとは何でも言い合える関係でもあり、それは、天正15年と推定される秀吉のねねへの手紙でよくわかる。「忙しくて仕方ないけど、手紙を書きました。急いで一つ尿筒(竹製の尿瓶)を送ってくれ。それから蜜柑を一桶分送るから、あなたは五つ取り、残りは豪が三つ、一つ半を金吾、残る半分は小姫にあげてくれ」と記している。
また、秀吉が宛てた手紙のなかに「ゆるゆるだきやい候て、物がたり申すべく候」との一節がある。「久しぶりにゆっくり抱き合いながら話そうね」と語りかけているのだ。このときねねは45歳。長年連れ添った老妻への愛情が見て取れる。何とも素敵な夫婦である。


