※本稿は、河合敦『豊臣一族 秀吉・秀長の天下統一を支えた人々』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
信長の草履を温めた逸話はフィクション
松下家を放逐された秀吉はその後、故郷の尾張に戻り、同地を支配していた織田信長に草履取りとして仕えることになった。どうやって仕官することができたのか。
これに関しても諸説あるが、『太閤素生記』によれば、同じ村の出で小人頭として織田家に仕えていた一若の紹介だったとされる。同書によれば、それは天文22年(1553)のこと。この年、秀吉は17歳である。ただ、永禄元年(1558)だとする説もある。
さて、秀吉が草履取りになったある寒い冬の日、主君のことを思って懐で信長の草履温めていた。その行為に感心した信長は、以後、秀吉に目をかけるようになったという。この逸話はあまりに有名だが、江戸初期の太閤記類には登場せず、『絵本太閤記』が最初なので史実とは考えられない。
25歳で12歳年下の女性と「恋愛結婚」
秀吉の初出史料(永禄8年)は、坪内利定という者に土地支配を認めたもので、この年までには秀吉が領地を持つ士分になっていたことは確かだ。
その4年前(永禄4年)、後世の「木下譜」によれば、秀吉は結婚している。お相手の女性は13歳(天文18年誕生説が有力)。数え年なので、いまでいえば12歳、小学校6年生ぐらいである。秀吉は12歳年上の25歳。結婚するには一般的な年齢だが、さすがに彼女のほうは早婚すぎる。ただ意外にも、2人は恋愛結婚だったといわれている。そんな秀吉の正妻の名だが、これまた判然としない。
昔は『太閤素生記』などに従い「ねね」と呼ばれていたが、この呼称は一次史料には登場しない。「ね」という自筆の書状があり、秀吉も「おね」と宛てた手紙を書いていることから、「ね」か敬称を入れて「おね」が正しいとされ、近年は映画やテレビドラマでは「おね」と呼ばれるようになっている。
ただ、このほかにも祢、禰、禰々、寧、寧々、寧子、吉子などの表記もあって、どう呼ぶのが正しいか断定しがたい。とはいえ、北政所や高台院ではあまり人間味を感じないので、本書ではなじみのある「ねね」と記すことにしたい。

