ねねの母が2人の結婚に猛反対した理由
ねねは、杉原(木下)定利と朝日の次女として生まれたが、母の朝日は秀吉が卑賤な出であることを理由に、二人の結婚に強く反対したとされる。別説では、秀吉が結婚前にねねと性交渉したことを知って怒り、結婚に同意しなかったともいう。
ともあれ、朝日がひどく秀吉を嫌うので、見かねた朝日の姉・七曲が手を差し伸べ、自分と夫の浅野長勝(信長の家臣。弓衆)の養女にしたうえで秀吉に嫁がせたと伝えられる。
秀吉夫妻の媒酌人は、主君信長の従兄弟・名古屋因幡守敦順(高久とも)だという説がある。敦順の妻・養雲院殿がねねの手習いの師匠で、因幡守が秀吉の将来性に期待し、身分が上の杉原定利の娘との縁談をすすめたのだとされる。だが、あくまで一つの説に過ぎず、織田家の宿老・柴田勝家が取り持った縁談だとするものもある。
研究者の小和田哲男氏は、信長公認の結婚だった可能性を指摘している。ちなみに秀吉夫妻が暮らす清洲(清須)城の足軽長屋には、前田利家夫妻も住んでおり、家族ぐるみの付き合いをしていたという。後に子に恵まれない秀吉夫妻は、利家の娘・豪を養女にしているし、秀吉は後年、利家のことを「おさなともだち」と呼んでいる。
死闘の日々を送る夫を妻がサポート
織田家に仕官して約20年、長浜城主となった秀吉だが、落ち着いて長浜の地に腰を据えていられなかった。伊勢・長島の一向一揆、甲斐の武田勝頼、越前一向一揆など、信長に従って強敵との死闘の日々を送っていたからだ。だから留守中の長浜領は、秀吉の重臣や一族たちが守っていた。
正妻のねねも領内統治に関与し、いったん秀吉が長浜城下の町人たちに発した命令を、ねねが秀吉に頼んで帳消しにさせたといわれてきた。
秀吉は、城下町の殷賑策として長浜の町人たちに年貢や諸税を免除した。ところが調子に乗った町人たちが、近在の農民たちを町に呼び寄せ、彼らにもその利得を与えようとしたのである。
農民が村を捨てて町に移動すれば、田畑は荒廃し税が入らなくなる。だから怒った秀吉は、町人たちの免税特権を撤回した。驚いた町人たちはねねに泣きついた。結果、ねねの説得により秀吉は命令を取り下げ、その旨をねねに手紙で知らせてきたというのだ。

