信長に愚痴った「女好き秀吉の悪癖」

ただ、福田千鶴氏(『人物叢書323 高台院』吉川弘文館)は、秀吉に再考を迫ったのはねねではなく、実母のなかだったという。当時、大名が親族の女性に与える書状は、直接当人には宛てて出さず、お付きの侍女を宛名とした。

この天正4年(1576)と想定される手紙は、「こぼ」という女性に宛てて出されている。彼女はねねではなく、秀吉の母・なかの侍女なのだ。いずれにせよ、当主の留守中に一族の女性が政治に関与していたことがわかる。

たとえばねねは、秀吉を同伴せずに、織田信長の安土城に土産物を持って訪問している。信長に会っているのだから、当然、その妻女にも進物を渡すなど女同士の外交もおこなわれたはず。

ちなみにこのときねねは、秀吉の女癖の悪さを信長に愚痴っている。

秀吉は相当な女好きで、地位が上がるにつれ、次々と若くて美しい女性を自分のものにしていった。その好色さは、外国人宣教師にまで伝わるほどだった。たとえば、ルイス・フロイスは、以下のように秀吉の悪癖を批判している。意訳しよう。

「秀吉はすでに50歳を過ぎているのに性欲が強く、それについては正常な判断力が保てず、御殿の中に若い娘を300名も囲っていた。さらには各地の城にも多くの娘たちを置いていた。家臣たちも秀吉のために美女を探しておき、彼が訪れるとその女を差し出した。秀吉は公家・大名から庶民の娘まで、欲しいと思えば、親が泣くのを無視して奪いとった」

「妻として堂々とかまえよ」と慰めた

こうした秀吉の女癖は長浜城主時代にひどくなったようで、ねねも悩まされていたのだろう。そんな彼女の愚痴に対する信長の返信(朱印状)が奇跡的に現存する。天正4年と推定されるその書状には、次のように記されている。

「あなたの容姿は以前会ったときより、倍以上美しくなった。なのに藤吉郎があなたに不足があると言うのは、まったく言語道断、曲事です。あなたのような素敵な女性は、どこをどう探しても、二度とあの禿げ鼠(秀吉)は得ることができないでしょう。だからあなたも、これからは身の持ち方を快活にし、妻として堂々とかまえ、やきもちなどは焼かないようにしなさい」

信長が部下の妻の愚痴を聞き、それを慰めるというのは、一般的なイメージから大きくかけ離れているが、面白くもある。