大河ドラマ『べらぼう』では、生田斗真演じる一橋治済が“悪役”として描かれている。だが史料をたどると、治済は恐れられた陰謀家どころか、徳川家の血筋を掌握した“圧倒的勝者”だったことが見えてくる。治済はどのような人物だったのか、歴史ライターの小林明さんが読み解く──。
徳川治済の肖像
徳川治済の肖像(写真=『改訂版 一橋徳川家名品図録』、茨城県立歴史館、2011/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

大河ドラマの「仇討ち作戦」はフィクション

NHK大河ドラマ『べらぼう』12月7日放送回で、ラスボス・一橋治済が意外な形で末路を迎えるのではないかとネットで話題になっている。

生田斗真さん扮する治済は邪魔な人間を片っ端から殺害するサイコパスで、しかも決して自分の手は汚さず手下の者に命じ、横浜流星さん演じる主人公・蔦屋重三郎らを窮地に追いやってきた。その人物がついに退場のときを迎えると予想されている。

しかし、これは演出上のフィクション・設定であり、史実では、治済は何の制裁も受けていない。

12月7日放送回の舞台は東洲斎写楽が活動していた寛政6〜7(1794〜95)年正月頃だが、この時期の治済の動向を一橋家の記録史料『新稿 一橋徳川家記』で見ていくと、ドラマとはまったく異なる。主だったものを抜粋しよう。

[寛政6年/44歳]
・3月18日/11代将軍家斉が一橋家(家斉にとっては実家)の外の空き地で遊行し、その後、田安家に立ち寄る際、治済も同行。田安家で家斉が槍術を披露するのを見学した。

・5月29日/江戸城に登城。このとき、治済が途中まで笠を被っていたと「聞いた者がいた」と記されている。

・10月19日/駒場で乗馬を行う。

[寛政7年/45歳]
・1月15日/治済の生母が70歳を迎える賀を祝う(生母は文化7[1810]年まで存命)。

治済は江戸で変わりなく暮らしている。以後も18歳で夭折した子・治国の法会を営む(4月8日)、江戸城で催された能を見学(5月11日)と続く。

さらに四女・紀姫の細川家への輿入れの許可を受ける(6月23日)、家斉の長女・淑姫の紐解ひもとき(幼児が付け帯をとって初めて普通の帯を用いる儀式)に出席(11月5日)など、慶事や法要などで多忙だった様子がうかがえる。

ただし、寛政6年の記載は他の年に比べて少ないのも事実で、(記録はないが)体調を崩していた可能性は否定できない。

その後も健在で、文政10(1827)年まで生きた。『新稿 一橋徳川家記』では同年2月8日に「治済不例」(治済が病気)となり、17日には家斉が見舞ったが、20日の卯の刻(午前5〜7時)に息を引き取ったとある。享年77。当時にあっては長寿だった。人生を謳歌したと見て良いだろう。

「最樹院性体瑩徹大居士」の戒名を授かり、23日に東叡山寛永寺に葬られた。

寛政6年5月29日にわざわざ「笠を被っていた」と記されているのが興味深い。ドラマで顔を隠して暗躍する治済のキャラクターは、こうした記録をもとに創作されたのかもしれない。