理屈っぽく扱いづらい少年
「明和八の年、予は十あまりの四つ。短気にしてわずかな事も怒り、あるいは人を叱り、または肩張り筋出して理をいひなん」
松平定信が自ら半生を記した回顧録『宇下人言』にある、明和8年(1771)、14歳の頃を振り返った一節だ。些細なことにも癇癪を起こし、肩をいからせ、青筋を立てては「理」を説いた――そう述懐している。
『宇下人言』は、こうした直情的な言動は4年後には「なくなった」と記しているが、あくまで定信自身の自己評価に過ぎす、第三者から見て本当に改善されたかはわからない。むしろ、この強烈な個性がもたらす威圧感は、その後も定信につきまとったのではないだろうか。
定信がしばしば口にしていた「理」とは、朱子学でいう天地万物をつかさどる法則を意味し、「あらゆる物事は何のためにあるのか」「そのために人は何をすべきか」をつねに自問せよ、という信条だったが、注目したいのは、そんな崇高な理念ではない。14歳の少年が“これみよがし”に強烈な主張を振りかざしていた事実である。
利発で弁も立ち、当意即妙だが、とにかく扱いにくい。思春期らしい可愛げなど、一切ない。周囲が“手を焼きそうな少年”の姿が読みとれる。
そうした理想を掲げた少年が、まんま大人になった――松平定信とは、そのような人物だったのではないだろうか。NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺~』では何かというと「倹約」という「理」を掲げてマウントをとろうとするが、あれは彼の「当たらずとも遠からず」の姿をとらえているように感じる。
「理」に固執し、それを貫くためには周囲と摩擦を生むのも、他人を攻撃するのもいとわない、心に刃と矛盾を抱えた人物だったといえる。その矛盾は「定信の光と翳」として、彼の生涯に複雑な陰影を及ぼしている。
「質素倹約」「風俗統制」で世の中は不景気に
例えば『べらぼう』での定信は、「質素倹約」「風俗統制」に熱心な人物だ。日々倹約し蓄財すれば、万一に備えることができる――すなわち財政規律を取り戻そうというのが倹約の意図であり、実際、この施策によって幕府の財政赤字は一定の改善を見せた。この功績は彼の「光」といえよう。
しかし一方、倹約令が大衆に浸透し遊びや無駄使いを控えた結果、市中に金が環流せず不景気に陥ったのも事実で、これは「翳」といえる。田沼意次の時代に隅田川を埋め立てて造成した歓楽地・中洲新地は取り壊され、吉原や岡場所など遊里は大打撃を受けた。遊興は徹底して取り締まりの対象となった。
好色本の発行も禁じられ、『べらぼう』では出版統制によって蔦重が身上半減、山東京伝が手鎖の刑に処される場面も描かれた。ドラマには登場しなかったが、江戸の銭湯には混浴もあり、定信はこれもご法度としている。

