勉強したことがない経営哲学をどう磨いたか
一冊の本を座右に置き、事あるごとに手に取っては反芻する──。そんな読み方を一途に貫いたのは京セラ創業者、稲盛和夫さん(1932〜2022)である。選んだ一冊は、幕末の西郷隆盛の思想や教えを41カ条にまとめた『西郷南洲翁遺訓』(南洲は西郷の雅号)。あたかも「お守り」のようにそれはいつも稲盛さんの肌身にあり、進むべき道を指し導くものだった。
稲盛さんが『南洲翁遺訓』と出会ったのは、30代半ばの頃だった。
鹿児島大学を卒業後に就職した京都のガラス製造会社は給料の遅配が続くダメ会社だったが、稲盛さんは特殊磁器(ニューセラミックス)の研究に没頭し、のちに仲間とともに京都セラミック(現京セラ)を立ち上げる。最初の会社とは喧嘩別れ。1959年4月、弱冠27歳の時の挑戦だ。
稲盛さんの人生で最初の大試練だった。起業直後の高揚と模索が続く中、社員は経営者・稲盛和夫に次から次へと選択と判断を求めてくる。終戦から14年、日本は高度成長期の入り口にあったとはいえ、舵取りを誤れば、船出したばかりの小さなスタートアップ企業は簡単に沈んでしまう。だが、自分は研究好きな一介の技術者であって、経営など勉強したことはないし、経営者としての経験もない。一体全体、どう物事を判断すればいいのか――。
迷いに迷い、悩んで悩み抜いて稲盛さんが出した結論は、「人間として正しいこと」を判断基準にするということだった。稲盛さんは後にこう振り返っている。「それは、子供の頃、父親や小学校の先生から教わったことでした。経営術を知らない私は、そんなプリミティブな道徳観、倫理観しか持ち合わせていなかったのです」。小賢しい策謀や付け焼き刃の経営術を弄することなく人としての正道を進むという稲盛さんの経営哲学の端緒は極限的な苦悩の中で開かれたものだった。
『南洲翁遺訓』との出会いは会社創業から10年くらい経った時に訪れた。稲盛さん曰く。
「会社は急成長していましたし株式も上場できました。しかし、私は内心、不安で不安でたまらなかった。いつなんどき業績が悪化して社員やその家族を路頭に迷わせてしまうかもしれない。無我夢中で仕事するしかありませんでした。そんなとき、山形県の地方銀行の頭取を退いて顧問をしているという紳士が訪ねてきた。西郷南洲の教えを伝承する顕彰会をやっているという。その方がわざわざ『西郷南洲翁遺訓』を私に届けてくれたのです」
ちなみに、『西郷南洲翁遺訓』は西郷が書き下ろしたものではなく、西郷の没後10年以上過ぎてから弟子たちによって編まれたものだ。まとめたのは、薩摩(鹿児島)ではなく、庄内(山形県)の人たちだ。心打たれる逸話がある。
明治維新の末期、幕府側の親藩として最後まで倒幕軍に抵抗したのは会津の白虎隊と庄内藩。庄内藩を攻めたのが薩摩藩士を中核に編成された官軍だった。戦いの末、庄内軍勢は降伏する。官軍側の参謀・黒田清隆が城の明け渡しを求めて登城すると、上座に黒田が座り、下座に17歳の若き藩主・酒井忠篤が控えた。城明け渡しの儀式が終わると、黒田がさっと席を立って下座に下がり、「そこは藩主である貴殿の席である」と言った。城下では勝った薩摩藩士が刀を持たず、逆に負けた庄内藩士に帯刀を許した。一連の指示を出していたのが西郷南洲だった。
寛大で人道的な扱いに深い感銘を受けた元庄内藩士たちが、後に西郷の下に集まり、薫陶を受けた。西郷は西南戦争で賊軍の長として非業の死を遂げるが、明治憲法が発布された1889(明治22)年、大赦によって賊名が解かれるや、元庄内藩の若者たちが中心になって西郷が生前に語った教えの数々を集め、後世に伝えようと編んだのが『南洲翁遺訓』だった。
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