鶴松の誕生が変えた豊臣家の命運
淀殿が男子を産むと、秀吉は「棄丸」と名付けた。棄て子はよく育つという迷信が由来である。のちに「鶴松」と改名しているが、改名の理由と時期はわかっていない。
鶴松誕生の年、秀長は秀吉の命で淀城の普請に携わっていた。開始時期は天正17(1589)年正月30日。淀殿の居城であるため、鶴松誕生後を想定した工事である。大和郡山への帰還は5月12日。その約2週間後に鶴松は誕生した。
嫡男誕生によって、秀吉の後継問題は大きく揺らいだ。『鹿苑日録』によると、6月6日には早くも「当壁(後継者指名)の命」があったと記されている。養子・血縁者による後継は見直され、有力候補と目された秀秋も候補から外されて丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)に飛ばされた。
おそらく秀長・秀次への政権移行も白紙となったはずだ。鶴松誕生を知った諸大名は続々と秀吉のもとに参上し、寿ぎの言葉と品々を贈った。9月には公家や大名の行列をともない大坂城へと上坂し、「生まれながらの天下人」であることを世間に知らしめている。
翌天正18(1590)年2月13日には聚楽第に入り、北政所や有力公家と盛大な宴が催された。満1歳に満たないうちから各所にお披露目されるところに、秀吉の喜びようと期待がうかがえる。
秀吉を揺さぶった「2つの正義」
しかし、鶴松誕生と権力移行の白紙化により、秀吉と豊臣一門とのあいだに亀裂が生じることになるのである。
鶴松誕生で混乱したのが関白職の行方だ。秀吉は近衛家と二条家間の争論を利用して関白の座につき、豊臣姓を賜わった結果、自らの血筋が関白を継承していく体制をつくり上げた。
しかし実子がいなかったので、関白の継承先はいなかった。『関白職幷六宮御身躰文書案』によると、秀吉は後陽成天皇の弟である六宮(八条の宮智仁親王)に関白職を譲与する予定だった。関白職は将来的に近衛家へと返還すると約束したうえでの就任だったので、明らかな盟約違反である。
それでも秀吉は後陽成天皇と「御契約」を結び、六宮を猶子(実親子ではない二者が親子関係を結んだときの子)とした。天皇に奏上した時期は、聚楽第行幸かその直前だとされている。近衛家も相手が天皇の弟では口を挟めず、関白の後継問題は一応の解決をみた。
そこで起きたのが、嫡男・鶴松の誕生だ。後陽成天皇は六宮との契約を白紙とし、鶴松に関白職を譲るべきと意見した。秀吉は「六宮様との御契約を破るのは忍びなく、鶴松もまだ幼少なので先はわからない」と辞退している。

