弟・秀長には託されなかった

それでも天皇は幾度も譲与をすすめ、ついには「誰であっても秀吉が相続にふさわしいと認めるなら、譲与しても差し支えなし」と言い渡した。

ここで秀吉も折れ、鶴松への関白譲与を決めたとしている。『天正十八年正預祐父自記』によると、その時期は天正17(1589)年12月1日であるようだ。

秀吉が再三の叡慮(天皇の意向)を拒み続けたのは、関白譲与にかんする言質を取りたかったからだとされる。「秀吉の意思で関白を相続可能」とする天皇の発言により、実子以外の血族や幼児への御与奪(譲与)への道が開かれた。これによって豊臣家の相続と関白譲与を一体化させ、関白職を秀吉の一門で独占することも可能になった。なお、鶴松の関白任官は、乳児であるため延期となっている。