豊臣秀吉政権下における秀長の重要な役割
戦国時代における「取次」とは、主君と家臣、あるいは他大名・朝廷とのあいだを仲介する役割だ。
秀吉も織田家の家臣時代は、毛利家と信長の取次・仲介役を担なっている。永禄12(1569)年3月18日付で秀吉が毛利家に宛てた書状では、毛利の使者上洛を申し次ぐよう信長に命じられたことが記され、天正3(1575)年9月7日付の書状では、中国地方に逃亡した元将軍・足利義昭の帰京について交渉している。
これにより、織田政権下での秀吉が、織田・毛利家間の外交窓口として機能していたことがわかる。取次の役割は、秀吉政権下だとさらに多岐にわたっている。歴史学者の山本博文氏によると、秀吉政権下での取次の役目は「諸大名への命令伝達や個々の大名を服属させ後見すること」。
つまりは秀吉の命令を諸大名に伝達し、各大名の統治を監督しつつ、軍事面での指示伝達をする役柄だったとしている。その役割は重臣が担い、初期は徳川家康や毛利輝元などの有力大名、中後期は秀吉の側近と血縁者があたったとする。
ただし、政権組織に取次という役職があったかどうかはわかっていない。山本氏は「概念的な役割であり、取次的な仕事を行なった武将が該当する」としている。これに対して歴史学者の津野倫明氏は「一次史料で取次と確認できる人物のみを扱うべき」としており、秀吉政権下の取次に対する認識は、いまもあいまいな状況が続いている。
軍事だけでなく戦後交渉もうまい
秀長もこうした取次的役割を果たしたとされている。その時期は秀吉の関白就任前後からだという。ただし、それ以前から事実上の取次だったともいわれている。秀長は秀吉の裏方・補佐役として有名だが、兄の代理として表に出ることも多かった。主君の代理人を「名代」と呼び、小牧・長久手の戦いのあとに秀長は織田信雄との外交交渉を一任されている。
紀州攻めでは城攻めの一部を任されるとともに、寺社への禁制発給を一部担っている。秀吉が出した禁制は高野山などに3通、秀長は紀州や中小寺社を中心に5通である。占領地の助命起請文も手がけており、秀長はまさに秀吉の実質的な代行者であった。
自らが総大将となった四国征伐では、事後交渉も任された。また九州征伐では事実上の主力軍となり、東回りの進路で島津軍を追い詰めただけでなく、戦後の交渉も一任されている。
すでに秀長は、兄の関白就任前から直後まで、君主の代理人として軍事と交渉事において大いに活躍していた。そして、この名代としての立場を使い、諸大名との外交事を引き受けることもあった。

