残された書状からわかる仕事ぶり

中国地方の毛利家は、黒田官兵衛・長政と蜂須賀正勝・家政が取次を務めている。

ただし、それは馳走役(持て成し役)としてだ、と慶長5(1600)年10月4日の黒田孝高(官兵衛)宛ての書状で回想されている。また、毛利外交も秀吉の意思に沿った交渉と接収しか確認されておらず、取次としての発言力は制限されていた可能性がある。

一方、秀長は四国攻めの最中から実質的な毛利家取次だった。立場は名代だが、毛利家と秀吉の仲介役として命令伝達と交渉事を果たしている。天正13(1585)年閏7月19日付で秀長から小早川隆景に宛てた書状で確認される事実だ。