残された書状からわかる仕事ぶり

中国地方の毛利家は、黒田官兵衛・長政と蜂須賀正勝・家政が取次を務めている。

ただし、それは馳走役(持て成し役)としてだ、と慶長5(1600)年10月4日の黒田孝高(官兵衛)宛ての書状で回想されている。また、毛利外交も秀吉の意思に沿った交渉と接収しか確認されておらず、取次としての発言力は制限されていた可能性がある。