自己啓発書が書き換える倫理
ただ、このように系譜を追いかけていくなかで、掃除・片づけ本が売れる大まかな社会的背景については次のように考えられるのではないかと思っています。
TOPIC-4で述べたように、辰巳さんから小松さん、近藤さん、やましたさんへと受け継がれている一つの考えに、「もったいない」という考えの否定がありました。モノが不足している時代においては重要であった「もったいない」という美徳は、次々と新しい商品が登場し、そのなかで暮らしている私たちにとってはむしろ、暮らしづらさ、生きづらさの源泉となってしまう。だからこそ、「もったいない」という美徳から離脱し、やましたさんが述べるように「自分とモノとの関係性」を結び直そうというわけです。「モノをコントロールできる」状態に自らを変えていこう、と。
私がいいたいのは、モノが溢れる現代社会だから掃除・片づけ本が売れるのだ、という単純な話ではなく、そのもう少し先の話です。以前、連載第7テーマ「女性らしさ」の回で、食というごく個人的な行動は「自分らしさ」に結びつけられやすいという話をしました(http://president.jp/articles/-/8662)。モノを買う、持つ、捨てるといったことも、同じように「自分らしさ」に結びつけやすいとは思わないでしょうか。
消費社会が成熟してくると、つまりモノが不足していた時代が終わり、ただモノの機能を求めて消費するのではなく、自分にふさわしいモノのイメージを求めて消費する(およびモノの作り手もイメージを念頭において生産する)時代になってくると、消費は「自分らしさ」と不可分のものになってきます。自ら選択してどんなモノを身にまとうか、どんなモノを家に置くか、どんなモノを食べるか、等々。そしてどんなモノを残し、また捨てるか。
私たちの日常において、こうしたモノをめぐる取捨選択は、多いときは一日に何度も私たちの前に押し寄せるものです。消費行動という、溢れる選択肢のなかから何かを選び捨てるという行為の蓄積は、さほど意識はしていなかったとしても、私たちが何を欲しているのか、どんな自分でありたいのかを少しずつ私たちのうちに、また外見上に形づくっていくのだとは思いませんか。
社会学者ジグムント・バウマンは、このように生きればいいという指針が揺らいだ、寄る辺なき現代社会において、唯一「アイデンティティの核」となるのは「選んでいる人」であることだと述べます。つまり述べてきたような、商品を選び、自らに取り入れまた外すというその選択の仕方、選択の感覚——これは流行に応じて柔軟に書きかえられねばならない——こそが、現代を生きる人々に残された、有力な「自分らしさ」の手がかりなのだ、と(『リキッド・ライフ』63-65p)。
バウマンの指摘を踏まえると、どんなモノを家に置くか、捨てるか、そして今後何を厳選して取り入れていくのかといった考えの組み替えを扱う著作がベストセラーになることは、いかにもありそうなことだと思えるようになります。現代社会を生きる私たちに取って、消費行動は「自分らしさ」を実現し、また新たにそれを更新していく、毎日行われ続ける最も身近な心理療法のようなものであり、またモノについての考えを変えることも同様に身近なセラピーなのですから。
ここまで考えを進めたとき、面白いと思うのは、近藤さんややましたさんが、バウマンが述べるような「選んでいる人」に積極的になろうとしているということです。「来る日も来る日も販売期日の過ぎたものを捨て続け、アイデンティティを構築しては解体し、身にまとっては脱ぎ捨てるという作業をし続けねばならない」(『リキッド・ライフ』10-11p)という、消費を通して「自分らしさ」をまとい続ける行為にうんざりして身をひくのではなく、積極的にまとい続けようとしているのです。
たとえば近藤さんの場合であれば、好きなモノだけに囲まれることで「自分らしさ」をより高い純度で感じ取ろうとし、やましたさんであれば、「どんどん旬のモノを取り入れて」、世の中のエネルギーを積極的に取り入れていこうとしています。いずれにせよ、モノが「自分らしさ」を形づくるということを肯定的に受け入れ、それを楽しんで泳いで行こうとするような積極的な姿勢がみられるのです。もう少し正確にいえば、ただ泳ごうとするのではなく、消費社会を泳いでいくためのコンセプトを自らの内にはっきりしたものとして定め、突き進んでいくという積極性だといえます。
これは1970年代のフランスについての分析からですが、社会学者ピエール・ブルデューは、その当時新たに登場してきた職業のなかに「欲求の商人たち」「倫理的前衛」とでも呼べるものがあると述べています。それは自分が主張する価値観や生き方の体現者として自分自身を売り、新たな価値観を世に発信するような人々のことです。そしてこうした人々が示すのは「義務としての快楽」であるとブルデューは述べます。楽しくあろう、誰にも邪魔されずにあなたらしく生きていこう、というように(『ディスタンクシオンII』176-188p)。
フランスと日本、1970年代と現在という具体的な文脈の違いはあれど、自己啓発書の書き手とはこのような、現代に生きる「欲求の商人たち」「倫理的前衛」なのだと私は考えています。自らをその体現者として、新たな価値観を発信し、その基本として自分以外の何物にも煩わされない——他者中心ではなく自分中心、自分の心の奥底にある感情やときめきを大事にせよ——こと、つまり「自分らしさ」を主張する。そして新たな価値観の実践は楽しく行われるべきだとも主張する。もし近藤さんややましたさんの著作がよく売れたことをあえて解釈するなら、消費することの楽しさを損なわず、また捨てることも楽しみへ変えていこうとする姿勢を貫き通したことにある、といえるのかもしれません。
さて、かなり長い回になってしまいました。第7テーマ「女性らしさ」、第8テーマ「手帳術」、そしてこの第9テーマ「掃除・片づけ」と、日常生活の些細な一コマを通して自分を変え、人生を変え、夢がかなうとする言論がどのように登場してきたのかを追ってきました。「夢」についてはまだもう少し考えたいと思っているのですが、とりあえずここで一旦打ち止めとしたいと思います。
いずれにせよ私たちは、日常生活のすぐそこに、自己啓発の世界への誘いが仕掛けられている社会に生きているといえます。連載でとりあげてきた自己啓発書のことは知らなくとも、既に似たような考え方をしている、共感することがある、という方もいたと思います。しかしそのような考え方は、ほんのここ十数年のあいだに広まったものに過ぎないのです。こうした意味で、私たちは「自己啓発の時代」に生きているのです。
次回はテーマを大きく変えて、もう少しシンプルに論じていきたいと思います。次回テーマは「スポーツ」です。