人の愛情の裏表に敏感であったワケ

川端の作品は、孤児であったことが大きく影響しています。人の愛情に対してとても敏感だった川端は、昭和43(1968)年に日本人初となるノーベル文学賞を受賞したとき、毎日新聞夕刊に随筆『思ひ出すともなく』を寄稿しました。

自分が孤児であったことが多くの巡り合わせを生み、人生において恵まれたことを次のように述べています。

「しかし、私の人生でのもろもろのありがたいめぐりあいは、孤児であったから恵まれたのではないかとも思う。恥づかしい秘密のようなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与えてくれた人に、心をこらしたものであった」
『思ひ出すともなく』(『一草一花』講談社文芸文庫に収録)

少年のころから寝る前に、その日の出来事を振り返り、自分に親切にしてくれた人々に対して合掌し、感謝の気持ちを示していたのです。人に優しくされることに、人並み以上に深い感謝の念を抱いていたことが伝わってきます。

こうした習慣から、川端は他人の愛情を本質的に、そして敏感に深く受け止めました。

その半面、人の愛情の怖さも知っていたのです。

女性編集者をじっと見つめ続けて泣かす

一般的な少年とは異なる経験を重ねてきたことから、川端の作品には、ほかの作家が描く男女の恋愛や人間関係とは異なる“変態的”ともいえる偏った世界観が描かれています。

1つには“処女崇拝”の傾向が強かったということが挙げられます。

代表作『眠れる美女』『伊豆の踊子』など、いくつかの作品では「処女性」をテーマの1つにしています。

女性に対する思いは強いものの、男女の関係になってしまうのが怖い。「実際に触れて性関係を結んでしまうと、何かが壊れてしまう」と強く怯えているようなところがあるのです。

実際、川端の女性との距離のとり方は、ある種独特のものがありました。「女性編集者を泣かせた」という有名なエピソードでは、編集者が鎌倉の川端邸を遠くから訪れたにもかかわらず、元来無口な川端は何もしゃべらず、ギョロッとした目でじっと彼女を見ているだけ。

大御所作家にずっと見続けられるという緊張感に耐えられなくなったその女性編集者は、ついに泣き出してしまいます。

驚くのは、それを見た川端が、とくにフォローするでもなく、「どうかしましたか?」と疑問を呈したというのです。

川端康成の肖像(画像=土門拳/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons