孤児として祖父を看取った「ヤングケアラー」
川端康成は明治32(1899)年、大阪市で生まれました。父親は開業医で、漢詩文や文人画を嗜む教養のある人でしたが、川端が2歳のときに亡くなり、さらに3歳のときには母親も亡くしています。
そのため、幼い川端は母方の実家に預けられ、祖父母に育てられました。ところが、川端が7歳のときに、祖母も亡くなってしまいます。残された祖父も、川端が15歳のときに病に伏せ、川端が介護した末に亡くなってしまいます。
いまでは日常的に家族の世話や介護を担う子どもは「ヤングケアラー」と呼ばれますが、川端はまさにヤングケアラーだったのです。
次々と肉親が亡くなる現実を目の当たりにして、川端は幼いながらもつねに「死」を間近に感じていました。15歳で孤児となった経験は、のちに小説家としての人生にも、大きく影響することになります。
両親に続き、川端が7歳のときに祖母も亡くなってからは、祖父が亡くなる15歳まで、祖父と2人暮らしでした。川端を育ててくれた祖父は次第に老いていき、目も見えなくなり、晩年は寝たきりだったといいます。
寝たきりの祖父の介護を写実的に記録
祖父が1人で動けなくなってから、川端はずっと介護をしていたのです。
そのころのことを短編実録小説『十六歳の日記』に綴っています。タイトルにある16歳は数え年で、満年齢で14歳のとき。寝たきりの祖父の病状を写実的に記録した日記を26歳のときに発表したのです。
この日記には、10代の川端が、学校から帰宅しては祖父の介護をする様子が詳細に綴られています。祖父の“下の世話”をしていたことも記されており、当時の介護の大変さが、ひしひしと伝わってきます。
『十六歳の日記』(『伊豆の踊子・温泉宿 他四篇』岩波文庫に収録)
川端は祖父が亡くなると、母方の親戚である黒田家に引きとられました。とても勉強ができる少年だったため、第一高等学校(現・東京大学教養学部)に進み、その後、東京帝国大学文学部国文学科を卒業。やがて、文芸誌『新思潮』を通じて、作家としての道を歩み始めます。