日記にあらわれる紫式部の影

ただ、史料に紫式部の影がまったく見えないということではない。「光る君へ」で秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、たびたび取り次ぎの女房が登場する。

紫式部日記』によると、上級貴族たちが中宮の御所を訪れ、中宮になにかを伝える場合、中宮に直接伝えるのではなかった。それぞれの貴族に「おのおの、心寄せの人(それぞれがひいきにしている女房)」がいて、その女性を介していた。御簾越しに要件を女房に伝えると、女房はそれを中宮に取り次いでいた。

そして中宮で、一条天皇の死後は皇太后となった彰子の御所においては、実資の「心寄せの人」は紫式部だったと考えられている。実資自身が長和2年(1013)5月25日の条に、「越後守為時の女、此の女を以て、前々、雑事を啓せしむるのみ(越後守為時の娘=紫式部である女房を通して、さまざまなことを皇太后様に申し上げてきた)」と注記しているのである。

同じ人物とおぼしき女房が、『小右記』には長和元年(1012)5月28日の条を皮切りに、たびたび登場している。その日は一条天皇の一周忌の法会が行われた翌日で、実資はその少し前に連日行われていた一条天皇追悼の法華八講について、中宮を慰労する言葉をその「女房」を通じて伝えている。

『小右記』からは、実資と紫式部のあいだに信頼関係が形成されていた様子がうかがいしれる。

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いつ彰子のもとを去ったのか

『小右記』にはその後も、長和2年(1013)7月5日、同年8月20日、長和3年(1014)10月9日などに、同じ人物と思われる「女房」が登場している。

だが、その後、この「女房」がまったく出てこなくなったので、紫式部は長和3年(1014)ごろに死去したという説もあるが、登場しなくなったわけではない。道長が出家し、続いて刀伊の入寇があった翌年の寛仁4年(1020)9月11日の条にも「太后宮の女房に相遇ひ、罷り出づと(皇太后彰子様の女房に会って、退出したという)」という表現がある。

これは刀伊の入寇を撃退した隆家からの伝聞を、実資が書き記したもので、「女房に相遇ひ」は隆家のことだが、伊井春樹氏は「実資がわざわざ『女房』と記すのは、不特定の女房ではなく、なじみの紫式部であったことによる」と書いている(『紫式部の実像』朝日選書)。

伊井氏はさらに「実資の日記には、これ以降も『女房』の記述はあるが、『相遇ふ』といった具体的な行動ではなく、複数の女房を指してのことばも用い方となる」と記す。そのうえで、「紫式部は『小右記』の最後に見える寛仁四年九月以降、病気か、何かの事情によるのか、皇太后宮のもとを去り、その後亡くなったのではないかと思う」と推察している(同書)。