チェーン店に押されて、激減した客足

食堂に戻った翌年に光利さんは30歳で結婚、1男2女に恵まれ、日光橋食堂の2代目として飛島村にしっかりと根を張った。1990年代後半から2000年代まで、トラック運転手を中心に、食堂は順調に客足を伸ばしていった。しかし、2010年代に入ると徐々に客足が鈍り始める。

「だんだんお客さんが少なくなって、一番忙しいはずの昼時に、1人もいないこともありました。周囲にチェーン店が増えたという事情もありますが、時代が変わって、親父の作り置きスタイルが通用しなくなってきたのでしょうね」

筆者撮影
周囲のチェーン店に押された時、3人の子供は食べ盛りだった

2012年4月、食堂の200m先に博多ラーメン本丸亭飛島店が、同年翌月にはかつや愛知名四弥富店が開店するなど、トラック運転手の需要を狙い、近くに大手外食チェーン店が乱立し始めた。そして2014年6月のイオンモール名古屋茶屋店の開店がとどめとなり、日光橋食堂の客足はぱったりと途絶えた。それまでは1日80から100組程度が来店していたが、徐々に数を減らし、2、3組しか来ない日も多くなったという。

光利さんには高校生を筆頭に、これからお金がかかる子どもが3人もいる。危機感を覚えなかったのだろうか。

「何とかしなあかんな、と思う一方、どこかで何とかなるとも思っていました。おいしいものを出せば、それを食べたお客さんは必ずまた戻ってきてくれるはずですから」

起死回生のスタミナ定食

そこから、これまでなかった新しい定食メニューの開発が始まった。当初は光利さんが東京で学んだフランスのビストロ料理の提供を始める。しかし、ほうれん草のキッシュやベシャメルソースの料理は客の口に合わず、全く売れなかったという。そこで客に直接、どんな料理が食べたいのかと聞いてみた。

「家庭料理が食べたいって、みなさん言うんですね。東京で学んで来たものを自慢気に出していたけど、見当違いだった。そこですぐに考えを改めました」

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ニンニクの利いたスタミナ焼きそば。客が求めていたのは東京で学んだフランスのビストロ料理ではなかった

食堂の客はトラック運転手や工場で働く男性がメイン。だとしたら、パンチが効いてボリュームがあって、かつ健康に配慮して肉と野菜がバランスよくとれる料理がいいはずだ。

そこで、肉じゃがや揚げなす、きんぴらごぼうなど、試作品を作っては両親・妻・パートの神田さんに試食してもらい、改善点を聞いた。

「やっぱり、一番お客さんの近くにいる神田さんの意見は役に立ちました。あの人は思ったことを素直に言ってくれます。甘い、辛い、マズイなんて、バンバン意見してくれるんです」

勤続40年、常に最も顧客に近い立場で働いてきたパートの神田さん。光利さんが学生の頃からこの店を知っている彼女は、臆せずに意見をぶつけてくれた。

「ご主人が新しいことを始めないとって言うからね、あの時は試食ばっかりだったよ。定食の数もどんどん増えた。なかでもあれが出来たときは、画期的だと思った。これでいけるぞ!って」

「#トラック野郎の聖地」に

神田さんが初めて太鼓判を押した料理こそ、「スタミナ定食」だった。豚肉をキャベツ、玉ねぎ、もやしなどの野菜と一緒に炒め、ニンニクをたっぷり利かせ、真ん中に半熟玉子を落とす。現在人気ナンバーワンの「スタミナ焼きそば定食」の元祖となった、起死回生のメニューが誕生した。

光利さんの言葉のとおり、スタミナ定食を食べた客がリピーターとなって食堂に戻り、店は半年ほどで活気を取り戻していった。そしてさらに時が流れ、SNS全盛の時代がやってくる。