お椀ではなく大きめのお茶碗に豚汁を流し込めば、一人前のスタミナ焼きそば定食の出来上がりだ。注文を聞きに客席にいた愛子さんが、神田さんの声に呼ばれて客前に料理を運んだ。

完全に分業化されているわけではなく、ときには愛子さんがご飯を盛ることもあれば、神田さんが注文を聞きに行くこともある。聞けば、料理は3人全員が作れるようにレシピを共有しているそうだ。

午後1時すぎるまで客は途絶えることがなかったが、3人は見事な連携プレーで滞りなく客をさばいていった。

首にかけた白いタオルで汗を拭いながら、ようやく光利さんが腰を下ろす。この食堂で生まれ育った彼は、何が一番印象に残っているのだろう。ふと気になって尋ねると、光利さんは困ったように考え込んだ。

忘れられないおふくろの味

【減量中のたまご焼き】日光橋食堂店主、伊藤光利さん

親父の料理で思い出に残っているものですか? これまでたくさん取材を受けてきましたが、そんなこと聞かれたのは初めてですよ。そうですね、親父というより、おふくろが作ってくれたたまご焼きがすごく印象に残っているかな。ちょっと甘めの味付けなんです。あれはおいしかったですね。

たまご焼き
筆者撮影
店内に並んだたまご焼き

私、18歳から23歳まで、ボクシングをやっていたんです。当時、テレビで浜田剛史選手の世界タイトルマッチを見て、かっこいいな、やってみたいなと思って。一応プロにもなりました。階級はバンタム級です。いつもは64キロぐらいある体重を、試合前には53.5キロまで減量しなければなりません。お腹がとても空いているのに、家は食堂の2階でしょう? いつも食べ物のにおいがしてくるので、試合直前になると空腹で精神的に追い込まれるんです。

そんなとき、おふくろがたまご焼きを作ってくれました。減量に影響が出ないよう、母なりに配慮してくれたのかもしれません。カラカラに乾いた口の中にたまごの甘味が溶けるようにとろりと広がって、飲み込むと五臓六腑に染みわたっていく。あの味が、とにかく印象に残っています。

たまご焼きって、いちばん家庭の味が出るでしょう? だから常連さんの味を覚えて、この人は甘め、この人はしょっぱめって、少しずつ味を変えて出しているんです。

思えば、ボクシングが特別好きだったというよりは、何か没頭できるものがほしかったのかもしれません。プロになってしばらくして、母が子宮筋腫になったとき、そろそろ潮時かなと思ったんです。それからボクシングはきっぱり辞めて、東京に料理の修行に出ることにしました。24歳のときでした。

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東京のフランス料理店での日々

24歳から5年間、光利さんは東京のフランス料理店で働いた。家賃3万5000円、風呂、トイレなしアパートでの生活だった。下働きの仕事は厳しく、小さな失敗で怒鳴られ、蹴り飛ばされる。昭和の名残が色濃く残る職場で、同僚の中にはノイローゼになって辞めていく者も多かった。しかし光利さんは、一度も辞めようとは思わなかったという。

「僕は一度、ボクシングから逃げたことがあったんです。でも、逃げても結局またどこかで同じ状況に立ち向かわなきゃならないときが来る。いつ乗り越えるかの問題なんです」

光利さん
筆者撮影
光利さん