プロになる前のある日、トレーナーと一緒に大阪城ホールに試合を見に行った。「冗談じゃない、これは殺される」と、何も言わずにジムに行かなくなったという。
「それなのに、バイト先で偶然トレーナーに会ってしまったんです。でも、トレーナーは叱ることもせず、『たまにはジムに遊びに来いよ』と。自分の中で中途半端で逃げてしまったというモヤモヤがあったので、もう一度やろうと思って、プロテストを受けました」
逃げたとしても、どのみち同じ経験をするときが来ることを悟った。だからもう逃げるのはやめた。レストランで叱られるたびに、忘れないよう指摘されたことをノートに書いた。厳しいけれど充実し、刺激に満ちた東京での生活を繰り返すうちに、いつのまにか光利さんの頭の中で、田舎の食堂の存在はぼんやりともやがかかったように薄まっていった。
「なんとなく、このまま東京にいたいなと思い始めていたんですが……、おふくろが今度は乳がんになってしまったんです」
「戻ってきてくれと頼んだわけじゃないからな」
ある夜、アパートに帰宅すると、留守番電話を示すボタンが光っていた。母からだった。「えらいことになっちゃった」と、普段は気丈で闊達な名物女将で通っていた母の動転した泣き声に、光利さんは東京生活の終わりを悟った。
さいわいにもてる子さんは胸の全摘出手術を受け、退院後すぐに食堂に復帰したという。片方の胸を失い、抗がん剤治療も続いていただろうに、気丈な方なのだろう。
母もパートの神田さんも光利さんの帰郷を喜んだが、父だけは違った。
「『戻ってきてくれって頼んだ覚えはないからな』と言われました。本音ではなかったのかもしれませんが、なんで俺、戻って来ちゃったんだろうっていう葛藤はありましたね」
1995年、光利さんは29歳で日光橋食堂の2代目となる。父は前線から退き、光利さんの方針に一切口を出さなくなった。ここからは光利さんを中心とした食堂の歴史が始まる。
父武男さんと、2代目光利さんの時代、両方の食堂を知る常連客・紀藤さん(47)がいる。この男性は、日光橋食堂を「人生の交差点のような場所」だと語った。
「お金は全然なかったのに、腹いっぱいにしてくれた」
【ミスター味っ子の目玉焼き】飛島村在住の紀藤さん(47歳)
『ミスター味っ子』っていうアニメ、わかります? 日光橋食堂って、あのアニメに出てくる「日之出食堂」、そのまんまだと思いませんか? トラック野郎たちが、ガ―っと飯をかっこんで仕事に出ていくような、そんな感じ。
僕は飛島村の隣の弥富市出身で、中学3年生のとき、仲間と一緒に初めて日光橋食堂に行ったんです。当時は僕もヤンチャでしたね。23号道路を挟んで向かい側に、「コーワレジャーランド」っていう日帰り入浴施設があったんです。今でいうスーパー銭湯みたいなやつ。当時、原付の免許取って、コーワレジャーランドに集まって、夜走り回るっていうのが若いやつらのステイタスでした。そこに行く前に、仲間と腹ごしらえに行ったのが、日光橋食堂でした。