「好きもの」と言われた紫式部は…

紫式部日記』は、四つの部分から構成されている。最初が彰子の出産など道長家の晴れの出来事を記す寛弘5(1008)年から同6年にかけての記録、次は有名な清少納言批判などを記すエッセイ、それに続いて年次を記さない短い記事群があって、最後には寛弘7(1010)年の道長家の記録が置かれている。

問題の箇所は三つ目の「年次不明記事群」にあり、道長らしき人による「局訪問事件」はその末尾に記されている。ただ、そこにはこの訪問者が道長であるとは記していない。推理するためには直前の記事から読み始める必要がある。

源氏の物語、御前おまへにあるを、殿の御覧じて、例のすずろごとどもできたるついでに、むめの下に敷かれたる紙に書かせ給へる、
すきものと 名にし立てれば 見る人の らで過ぐるは あらじとぞ思ふ
給はせたれば、
「人にまだ 折られぬものを たれかこの すきものぞとは 口ならしけむ めざましう」
と聞こゆ。

(『源氏の物語』が中宮様の御前に置かれていたのを道長様がご覧になって、いつものれごとを口にされるついでに、おやつの梅の実の下に敷かれていた懐紙かいしに、こう書きつけられた。
梅の実は酸っぱくておいしいと評判だから、枝を折らずに通り過ぎる者はいない。さて『源氏物語』作者のお前は「好きもの」と評判だ。口説かずに通り過ぎる男はいないと思うよ
殿がこの和歌を私に下さったので、私は申し上げた。
「あら、この梅はまだ枝を折られてもいないのに、誰が『酸っぱい』と口を鳴らしているのですか? 私だって同じ。まだ殿方とお付き合いをしたこともございませんのに、どなたが『好きもの』などと言い慣らわしているのでしょうか? 心外ですこと」)

(『紫式部日記』年次不明記事群)

きっかけは、彰子が自分の部屋に置いていた『源氏物語』だった。道長はそれに目を留め、折しも御前にいた作者の紫式部をからかったのである。