母親に親不孝を詫び、牧師になる準備を進める

計7年の懲役を終えて出所した私は、32歳になっていました。

出所を知った売人仲間や昔の客、組の弟分は、自分が牧師を目指しているとはつゆ知らず、何事もないかのように連絡してきました。裏稼業とはいえ、恩義を感じている人もいたので、彼らの誘いや要求を突っぱねるのには苦心したものです。

なかでも、親分に足を洗いたいとお願いしに行くのは、かなり時間と勇気が要りました。幸いなことに、要求は通り、晴れて牧師を目指すこととなりました。

間もなく、私は東船橋にある教会に出向いて洗礼を受け、住み込みで教会の手伝いをすることになりました。そこは土足のまま入れる教会でしたが、寝袋を持ち込んで床の上で寝泊まりすることになったのです。

合計で7年も刑務所に入っていた私でさえ、「なんて惨めな生活だろう」と思いましたが、ほかに行くところのなかった私はここで頑張るしかない、と決意を新たにしていました。「これからが本当の勝負だ。神さま、どうかお願いします」と祈りながら、教会での住み込み生活をスタートさせたのです。

撮影=プレジデントオンライン編集部
教会に住み込みで働いている頃、仕事で車を運転している際のエピソードを生き生きと語る進藤牧師

住み込み生活では、毎朝5時過ぎに起床し、6時には祈祷をして、聖書を勉強する毎日でした。やがて、呉服屋を営んでいる教会員に気にかけてもらい、そこで営業のバイトを始めました。そこから、19時から21時の夜間授業を行っているJTJ宣教神学校にも通い始めます。入学する際には、お世話になっている教会の牧師からの推薦があり、入学金や授業料を貸してくれる友人にも恵まれました。

入学後は目まぐるしい毎日でした。朝早くから掃除や礼拝の準備などの教会のルーティンをこなし、昼は鳶職や弁当店で働き、夜は学校に行く。神学校は上野にあり、住み込んでいた教会と遠かったため、恥を忍んで実家に戻りました。両親はすでに離婚しており、母は1人でスナックを経営していました。私は母のもとに向かい、これまでの親不孝を詫びて「ヤクザはやめて、いまは牧師を目指している。これから真面目に生きる」と伝え、なんとか許してもらうことができました。

教会を立ち上げるも、参加者は半年間ほぼゼロ

そして、在学中の2005年に、自分で教会を立ち上げました。ただ、教会といっても立派な建物があるわけではなく、母が経営しているスナックを日曜の昼だけ間借りしたものです。神学校の同級生も手伝ってくれたことで、ようやく伝道できると躍起になっていました。

ただ、いかんせん人が来ません。取ってつけたような手書きの看板は書いたものの、外観はどう見てもスナックです。結局、半年経っても参加者はほぼゼロで、手伝ってくれた友人も逃げ出す始末でした。それでも、やっとの思いでヤクザから足を洗って洗礼を受けたこともあり、後に引くことはできません。むしろ追い込まれたからこそ、信仰も深まり、やる気がみなぎってきました。

というのも、聖書には「鼻で息するものに頼るな」という言葉があります。この神の言葉の意味は「人(鼻で息するもの)ではなく、神ご自身に頼れ」という意味で、この言葉によって奮い立ったのです。

それからは、どうやったら教会に人が来てくれるのかを改めて考えていきました。