小児科医がいなくなればこの国の未来はない

豊島さんが、医師という職業に関心を持ったのは、中学のときに同級生が脳腫瘍で亡くなったことがきっかけだという。

「当然ですが、当時の僕には何もできませんでした。誰かが困ったときに何かをできる人になりたい、医学部に進みたい、そう思ったんです」

しかし、家族や身近に医療者はおらず、なかなか言い出せなかったという。高校でも文系に進んだ。

「諦めきれずに医学部に行きたいと周囲に意思表示をしたのは高3になってから。理系の勉強を始めて、1浪して医学部に進みました」

新潟大学医学部に入学後、医学を学ぶ中で、中学のときに亡くなった同級生への思いもあり、将来は小児科に進みたいと思っていた。

赤ちゃんと一緒に闘うスタッフと豊島さん。[出所=『医学部進学大百科2025完全保存版』(プレジデントムック)]

しかし、「小児科医になりたい」と言うと、先輩医師たちから「小児科はやめたほうがいい」と言われた。少子化が進み、小児科は斜陽領域だと当時から思われていたのだ。

「でも、子供たちはこの国の未来を担う大切な存在。小児科医がいなくなったら、この国の未来はない。ならば自分が小児科医になろうと」

そう考えたのだという。

大学時代の夏休み、神奈川県立こども医療センターで学生実習をした。

同センターは「子供専門の病院」というだけでなく、肢体不自由児施設や重症心身障害児施設、特別支援学校を併設。病棟の学習室やプレールームでは院内学級も開設されている「子供たちのための医療・福祉・教育を提供する総合施設」だった。

「病気を治すだけでなく、子供たちの成長も応援していました。病気を持った赤ちゃんや子供は、治療のためだけに生きているわけじゃない。未来に向けて日々成長しているし、日々学んでいる。こんな場所で働きたい、そう思いました」

大学卒業後、希望がかなって同センターの研修医となった。NICUでも研修したが、当時のNICUはまだまだ未開の医療で、スタッフも少なく過酷な現場だった。

「自分の実力不足や無力感で精神的にしんどく感じる毎日でした。そもそも病院は、困りごとを抱えた人が集まる場所。明るくて楽しいだけの職場ではありません。悩みや怒りを患者家族からぶつけられることもありました」