頼朝のやったこと、後世の人間の目から見れば、特に近現代の政治学をやった人間から見ると、こういう風に評価できます。当然、頼朝自身が狙ってやったわけではなく、当時の政争の中で生き残ろうとしてやったら、こうなったということですが。という実態を踏まえて本題です。

「イイクニつくろう鎌倉幕府」を否定する歴史学者

日本中世史についての研究は目覚ましく、そのほとんどを尊重しているのですが、ときどき首をかしげることがあります。その筆頭が、「一一九二(イイクニ)つくろう鎌倉幕府」の否定です。

今や、歴史教科書などで鎌倉時代の始まりが一一八五年とされて「イイハコつくろう鎌倉幕府」と覚えているようで。

実は、鎌倉時代の始まりをいつからとするかについては、戦前から論争がありました。次のような説があります。

一一八〇年説 源頼朝が伊豆で挙兵して、鎌倉に入って拠点を築いたから。
一一八三年説 東国支配の宣旨が与えられたから。
一一八五年説 平氏が壇ノ浦の戦いで滅亡し、頼朝が守護・地頭の設置権を得たから。
一一九〇年説 頼朝が上洛して右近衛大将に任命されたから。
一一九二年説 頼朝が征夷大将軍に任命されたから。
一二二一年説 承久の乱で鎌倉の力が完全に朝廷を圧したから。

それぞれ根拠があり、実態を伴うのですが、それぞれ検証。

まず議論を分けると、時代区分に関しては「鎌倉時代は、源平合戦が始まった一一八〇年から鎌倉幕府が滅亡した一三三三年で終わる」で良いと思います。ただし、その時点で幕府が成立しているかは別です。

歴史学者の責任放棄…室町幕府、江戸幕府はどうなるのか

話を単純化すると、「鎌倉幕府の成立が一一九二年ではないとしたら、室町時代や江戸時代はどうするの?」です。「それは室町や江戸の専門家が考えればよい」という声が聞こえてきますが、それでは学問としての体系化が無い。単なる思考停止の責任放棄です。

一一九二年説が非常にわかりやすく説明しやすいのは、初代創業者の源頼朝が征夷大将軍に任命された年だからです。実質を形式的に朝廷が承認しました。

室町時代は、一三三六年に建武の親政を足利尊氏が壊したことから始まった、でいいと思います。室町幕府ができたのは尊氏が将軍に任命された一三三八年になります。

倉山満『嘘だらけの日本中世史』(扶桑社新書)

江戸時代は一六〇〇年の関ヶ原の合戦の勝利で始まり、一六〇三年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸幕府が成立した、で説明がつきます。

頼朝・尊氏・家康の支配を、後鳥羽天皇・光厳天皇・後陽成天皇が承認した。政治の勝者だと認定した。それで統一的に説明ができます。

皇室史の観点から大事なのは、「政治の最高権力者の補任権を天皇が握っているから」です。摂政・関白・征夷大将軍、そして内閣総理大臣もそうです。嘘だと思うなら、日本国憲法第六条を読んでみればいい。「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」と書いてあります。

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