勧進帳というのは寄付を募る書類、関守は関所の責任者のことです。この話も「戦に功のあった弟の義経を虐める嫉妬深い兄の頼朝」という構図で流布されます。
史実で確実に言える義経は、他の武士と協調性が無く、勝手に官位をもらって見え透いた後白河法皇の分断工作に乗り、頼朝を朝敵とする院宣まで引き出してしまう。許したら頼朝の方が公私混同です。さらに、海上知明『「義経」愚将論』(徳間書店、二〇二一年)によれば、無駄に残虐な性格で、戦はまぐれ当たりの連発だったとか。
頼朝の手法は、西国に弟の範頼や義経らを行かせ、「平家を打倒するから協力しろ。その代わり朝廷と交渉してお前の土地を守ってやるから俺に従え」です。実際に年貢を納めさせて戦に動員させて言うことを聞かせるという事実をもって、朝廷と交渉する。範頼はこういうの得意だったようですが、義経は……。
確かに、義経の平家討伐が早すぎたので、西国への影響力は小さいままでした。頼朝は関東で権力を確立することに専念します。頼朝に従った有力武士は「御家人」と呼ばれるようになります。
「幕府」を考えた大江広元
ところで頼朝が、“中間管理職”だと気づいたでしょうか。武士たちは「貴種」の権威で従える。朝廷には現実の武力で圧力をかける。上を突き上げ、下を叩く、“中間管理職”だから、頼朝の立ち回りは絶妙だったのです。
日本国は律令制では六十六か国に分かれています。国ごとに国司がいましたが、まるで機能しないから、武士たちに頼朝が求められました。頼朝は国ごとに「守護」を置く権利を求めます。守護とは平時は治安を守り、有事には軍勢を供給する役目です。
そして土地ごとに「地頭」を置き、年貢を取り立てることとします。朝廷には公領があり、貴族は荘園と呼ばれる私有地を持っているのですが、荘園公領に対抗する武士の土地を持てるように朝廷と交渉し認めさせました。この土地のあり方が「幕府」の根幹です。
こういうことを考えたブレーンが大江広元だと『吾妻鏡』に特筆大書されています。大江の子孫は北条に逆らって潰されましたから、本当でないなら美化する必要が無い。たぶん本当でしょう。
人類のどこにもない「幕府」を考えた大天才が大江広元で、それを実現した大政治家が頼朝という評価で良いと思います。
源頼朝の作った政府は、幕府と呼ばれます。幕府は、昔は「Military government」と英訳されていましたが、今は「Bakufu」がそのまま英語表記として使われています。日本にしかないものなので翻訳のしようがないのです。同じく将軍もGeneralでは正確ではないのでShogunです。