島津がとったすさまじい作戦

さて、関ヶ原で退路を断たれた島津隊だが、ふつうはここで万事休す。だから義弘は自刃を覚悟したが、それを止めたのは甥の島津豊久だった。このとき、義弘を国許まで帰すために採られたのが、玉砕戦法というべき「捨てがまり」だった。

敵軍のなかを正面突破するしかない場合、ふつうに突進したのでは全滅しかねない。そこで正面突破してから、殿しんがりとなった小部隊が戦って敵を足止めし、全滅するとまた別の小部隊が全滅するまで戦う、ということを繰り返して時間を稼ぎ、本隊と大将を逃がすのである。さらに、数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃させた。

一面が東軍ばかりのなかに突進した島津隊は、こうして豊久も、義弘の家老の長寿院盛淳も命を落とした。しかし、結果としてこの戦法が成功したのは、島津隊は義弘への忠誠心が強いうえに(そうでなければ「捨て奸」などという戦法はとれない)、射撃の腕前が高かったからだといわれる。

追撃した家康の四男の松平忠吉は傷を負い、同じく徳川四天王の井伊直政も銃弾を受けて落馬。このため家康は追撃をやめさせ、義弘を中心に80人余りが薩摩まで逃げ帰ることができた。

ちなみに、井伊直政はそのケガが原因で、合戦から2年足らずで死去している。また、慶長12年(1607)に死去した松平忠吉も、このときのケガの影響は小さくなかったといわれる。島津義弘は関ヶ原合戦の最後の最後で、東軍に大きな損傷をあたえたのである。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(画像=関ケ原町歴史民俗学習館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

まさに「逃げるが勝ち」

このように島津義弘にかぎっては、実際、「逃げるが勝ち」であった。なにしろ、領土はそのまま安堵されたのである。

ところが、西軍のほかの将はそうではなかった。小西行長は伊吹山中(滋賀県と岐阜県の県境)で、石田三成は近江の古橋村(滋賀県瑞穂市)で、安国寺恵瓊は京都六条で捕えられ、みな引き回しのうえ処刑された。長塚正家は自刃し、増田長盛は配流になった。

さらには、西軍の総大将であったとはいえ、戦闘に参加しなかった毛利輝元は、事前に家康側とのあいだで領土保全の約束をしていたにもかかわらず、領土を3分の1以下に削られた。長宗我部元親にいたっては、まったく戦闘に参加しなかったのに改易された。

なぜ島津だけは「逃げるが勝ち」となったのか。そこでは前述のように、兄の義久の存在が功を奏した。義弘は謹慎し、家康側との交渉の前面には義久が立ち、都から遠く離れた薩摩にいて、中央の事情はわからなかったと主張したのである。

一方、義弘の子の忠恒(のちの家久)は鹿児島城を築いて武力衝突に備えるなど、有事の備えにも抜かりがなかった。さすがに家康は放置できず、島津討伐のために3万の軍を薩摩に送ったものの、途中で撤退させている。関ヶ原に主力を送らずに兵力を温存した島津家は、長期戦にも耐えられる状況で、家康は躊躇したと考えられる。