一条天皇を譲位させるためになんでもする

一条天皇は敦成親王が産まれた翌年である寛弘6年(1009)ごろから、体調不良が記録されている。伊周らが処分された敦成親王、彰子、道長への呪詛事件による心労の影響もあったと考えられる。そして、敦成を1日も早く東宮にしたい道長は、病気がちの一条天皇が譲位するように、無言の圧力をかけていった。

事が進んだのは寛弘8年(1011)5月だった。以下は行成の日記『権記』の記述による。5月22日、一条天皇は彰子のもとに渡ったのちに発病したが、25日には回復したという報告を行成は受けた。ところがその日、道長は儒学者の大江匡衡を呼び、一条天皇の病状と譲位について占わせたのだ。早く譲位してほしいとはやる気持ちに背中を押されたのだろう。結果、譲位どころか崩御という卦が出た。道長はこともあろうに、一条天皇の寝所の隣室に控えていた護持僧に占文を見せ、一緒にすすり泣いた。一条はその様子を漏れ聞いてショックを受け、病気が悪化してしまった――。行成はそう書いている。道長がわざと一条天皇に聞こえるように話した、と考える研究者も多い。

その後、譲位を決意した一条天皇は行成を呼び、せめて敦康親王を東宮にできないかと相談した。だが、道長の意を受けている行成の返答は、天皇を支える外戚の力が重要なので、道長が外祖父となる敦成がよい、というものだった。

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彰子は父・道長を怨んだ

一条天皇は5月27日、譲位を決意。道長に東宮の居貞親王との会見の仲介を頼んだが、その後の道長の行動が、彰子との確執を導いた。行成によれば、彰子は「道長を怨んだ」という。道長は一条天皇の意を伝えるために東宮のもとへ急ぎ、その際、彰子の居室の前を、素通りしたというのである。

行成は噂に聞いた話として、次のように書いている。

「『此の案内を東宮に達せんが為、御前より参らるるの道、上の御盧の前を経。縦ひ此の議を承はると雖も、何事を云ふべきにも非ず。事は是れ大事なり。もし隔心無くんば示さるるべきなり。しこうして、隠秘せんが為に、示し告げらるるの趣無きなり』と云々(『この連絡を東宮に知らせるため、父が天皇のもとから参上された経路は、私の部屋の前を通っていました。たとえこの話をうかがったところで、私はなにもいえません。これは重大事です。もし、父に私への気兼ねがなければ、話してくれてもよかった。でも、私には隠そうとして、なにも教えようとしてくれなかったようです』とおっしゃったとか)

道長は彰子の「夫」の譲位という一大事を、「妻」に知らせずに、彼女の前を素通りしたのである。道長にすれば、一条天皇の譲位で敦成親王がいよいよ東宮になれる、と浮足立って、彰子のことなど頭から消えてしまったのかもしれない。

いずれにせよ、彰子は大事なことを父は自分に隠した、と受け取った。敦康親王を先に皇位につけることを望んでいたから、父に排除された――。彰子はそう受けとったようだ。

山本淳子氏は「彰子は自分の怒りとこの憶測を、おそらくは女房たちに噂として〈拡散〉させた。だから行成の耳に入ったのである。天皇の意志を踏みにじり娘を蔑ろにしてでも摂政を望む道長の欲望を糾弾した。そして『父とは一線を画する自分』を宣言した」と書く(『道長物語』朝日選書)