「人の痛み」は見えにくい
「視覚障がい」という1つのハンデを抱えたことで、見えるようになったことがたくさんあります。
その1つが、「人の痛み」です。
目を悪くするまで、健康な人の何気ない言葉、何気ない冗談が障がいを持つ人の心をこんなに傷つけているなんて想像もしていませんでした。そして、障がいを持つことでこんなに自分の心が葛藤するのだということも。
特に全盲になる前、弱視やロービジョンと呼ばれる段階にいた頃は、毎日が葛藤でした。完全に見えている晴眼でも、完全に見えていない全盲でもないという中途半端な視力の状態を自分でもうまく説明できず、なかなか周囲に分かってもらえませんでした。障がい者として気を遣われると反発したい気持ちがむくむくと湧き出てしまうし、かといって健常者として全く気を遣われないとそれはそれで腹が立ってしまう。
助けてほしいのかほしくないのか、自分でも自分のスタンスがよく分からない。そんな足場のぐらついた状態では、周囲の言葉に対して、心はささくれ立ってばかりでした。
「頑張って」と言われてパワーダウンする人もいる
私の外来に来てくださる患者さんたちも、多くの葛藤の中にいらっしゃいます。白なのか黒なのかご自身の気持ちが分からず、うまく説明できず、もどかしくて悔しくて、そのことが余計に心にストレスを与えてしまう。
そんな患者さんと接する時、私は「言葉遣い」に細心の注意を払うようにしています。それは前述のとおり、自分自身も「言葉」にたくさん傷ついた経験があるからです。悪意がないのは分かっていても、それでも余裕のない心は言葉に傷ついてしまう。
脳天気だった私が、視覚障がいのおかげで、患者さんたちが感じるその痛みを少し想像できるようになったのです。
言葉というのは取り扱いが本当に難しいですね。
患者さんたちが傷ついてしまうのも言葉ですが、精神科医が心の痛みを和らげるために処方するのもまた言葉なのです。
言葉は薬にもなるけれど、使い方を間違えると毒にもなってしまうのです。
ただし、この世に万能薬が存在しないように、こうやって話せば人を傷つけずに済む、かならず相手を癒せるなんていう万能な言葉ももちろん存在しません。
「好き」と言われて喜ぶ人もいれば悲しむ人もいる、「頑張って」と言われて元気が出る人もいればパワーダウンする人もいるのです。