北海道美唄市で精神科医として働く福場将太さんは、徐々に視野が狭まる難病を患い、32歳のときに視力を失った。ただ、その後6年間は周囲に病気を明かさなかった。「『自分は障がい者じゃない』と思いたかった。でもハンデを抱えたことで、見えるようになったことがたくさんある」という――。

※本稿は、福場将太『目の見えない精神科医が、見えなくなって分かったこと』(サンマーク出版)の一部を再編集したものです。

患者と話す医師
写真=iStock.com/wutwhanfoto
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「人生の1つの時代が終わったな」

「私は目が見えない医師です」

障がいのことをそうオープンにした時、「人生の1つの時代が終わったな」と感じました。

それまでは、特に患者さんに対しては目が見えていないことをなるべく気づかれないように振る舞っていました。

もうとっくに見えなくなっていたのに、患者さんを不安にさせたくない、それ以上に知られたら医師として信頼されなくなる、という自分の不安が強かったからです。また「自分は障がい者じゃない」と思いたかったのも正直な気持ちでした。

32歳で失明したそんな私がなぜ「目の見えない精神科医であること」を開示するに至ったのか。

それは38歳の時に、学生時代の先輩と再会したことがきっかけでした。

眼科医として従事されているその先輩は、私の持病である網膜色素変性症をご専門とされ、その患者さんたちを対象にした講演会を企画されていました。そして、「講演会に一緒に出よう」と誘ってくださったのです。

精神科医の自分が眼科の講演会で話すのはおかしいと最初は戸惑ったのですが、先輩はこうおっしゃいました。

そこには、私の医療があった

「眼科には、いずれ目が見えなくなると告知されて塞ぎこんでしまう患者さん、実際に失明して生きる希望まで見失ってしまう患者さんがたくさんいる。でも眼科は患者さんの数が多くて、眼科医は患者さんのメンタルケアにまでなかなか手が回らないのが実情。だから目が見えなくなった当事者でもあり、心の支援の専門家でもある福場に、何でもいいから話をしてほしい」

全く予想だにしていなかった白羽の矢でした。

精神科医として講演をした経験は何度かありましたが、同時に視覚障がいの当事者としてというのは前代未聞。

一体どんな話をすればいいのかすぐ私の頭には浮かびませんでしたが、それでも心は「やってみよう、やってみたい」と素直に思っていました。

先輩に了解を伝えそこからひたすら準備と練習の日々。ここまで力を注いだ講演は後にも先にもありません。

講演当日、まずは先輩が眼科医として網膜色素変性症についてお話をされ、続いて私が登壇。

自分の障がいをオープンにした人生初の講演はあっという間に終わりましたが、会場からあたたかい拍手をいただきながら、おぼろげながら確かな手ごたえも感じていました。

それまでは、「いかに網膜色素変性症に邪魔されずに目が見えている医師と同じ仕事をするか」ということばかり考えていました。

しかし、この講演をやり遂げた時に、「網膜色素変性症を相棒にして目が見えている医師にはできない仕事をすればいい」と気づいたのです。

私の医療はここにありました。