家臣領民を惨殺されたはずの大内定綱は、政宗に仕え重臣に

翌日に落ち着きを取り戻した政宗は、侍のみの死亡数を200人ぐらいと精確な数が見えて、これを後藤信康に伝えた。そして翌月には侍と奉公人合わせて800人以下であることが見えてきて、僧侶の虎哉にこの数字を伝えることにした。

小手森城の落城悲話は、政宗のダークな一面を伝える挿話として有名だが、実際にはそうではなく、政宗自らが流した虚報である可能性が高いだろう。

この3年後、大内定綱は伊達家に帰参。政宗から徐々に重用され、子孫は一族格の扱いを受けることになった。

これも虐殺事件が事実ではないことを示しているのではなかろうか。

政宗は見栄っ張りで、他人に弱いところを見せようとしなかった。

最晩年のころ──。

仙台藩の江戸藩邸で重病に苦しむ政宗を見舞おうと、ひっきりなしに来客が訪れた。政宗は、周りが止めるのも聞かないで、来客相手に上下で正装して対応したという。

徳川将軍に下り、70歳で没するまで見栄を通した政宗

隠密で見舞いにきた将軍・徳川家光は、その死期を察して、政宗の後継者・伊達忠宗に「政宗に万が一のことがあっても、そなたを粗略には扱わない」と約束した。

その最期は妻子を招かず、看護にあたる老いた侍女たちに向かって次のように語っていた。

「昔は戦場を死に場所と駆け巡っていたが、こんな形で死を迎えることになろうとは予想しなかった」

そしていよいよとなった時、「もはやいかん」と言い、天竺のある西に向かって手を合わせ、倒れた。

忠宗と侍医が駆けつけたが、政宗は彼らを睥睨へいげいする(睨んで威圧する)ように見て一喝するなり、そのまま息を引き取った。

屋敷ではホトトギスが鳴き続けていた(佐藤憲一『伊達政宗の手紙』)。

寛永13年(1636年)享年70。

最期まで見栄を通した男であった。

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