伊達軍が得るものをゼロにしようという焦土作戦だったのでは
おそらくこの軍記にあるとおり、小手森城の人々は自発的に死を選んでいった。
敵軍の略奪を防ぐため、自発的に物資を破壊し、建築物を放火して、家畜を殺害した。
伊達軍が得るものをゼロにしてやろうとしたのだ。いわゆる「焦土戦術」である(攻撃側の破壊行動を「焦土戦術」と記すものがあるが、正しくは防衛側が破壊すること)。
伊達軍将士が静かになった小手森城の本丸に乗り込むと、自害した侍と、差し違えた男女の死骸がたくさん転がっていただろう。伊達軍が討ち捕った500人と、すでに亡くなっていた1000人で、合計1500人が死んでいて、死人に口なしの状態だったとも考えられる。
政宗は大内定綱に逃げられたばかりか、無血開城の交渉にも失敗し、さらには貯蓄物資(牛馬や兵糧など)の接収を果たせなかった。
おまけに、人質として取引の材料になりそうな捕虜の確保すらできていない。報告を受けた政宗は、「もし敵が自ら進んで自害したという風聞が広まったら、大内方の抵抗はこれからより激しくなる」と見て、この事実をなかったことにしたのだろう。
わざわざ「皆殺しにしてやった」と手紙に書いたワケ
こうして政宗は叔父の最上義光に、この惨事は彼らが積極的に行ったものではなく、伊達軍がやったこととして伝えたのではなかろうか。
牛馬もみんな死んでしまったが、さすがに「牛馬まで撫で切りにした」というと嘘くさいので、「犬までも撫で斬りにした」と誇大表現することで、過剰な殺意を演出して、これ以上事実に触れないでもらいたいと婉曲に伝えたわけである。
家臣には「この破壊と殺戮は、我々の失敗でない。政宗の激情で決行した結果である。伊達軍は大戦果を挙げた。わたしはこれに満足している」という態度を通した。
戦国時代の史料では、相手に自害されてしまった武将が書状で「定めて満足となす」などと、個人的な満足感を記して軍事行動の落着を図る例がある。
これらは彼らが作戦目的を予定通りに果たせなかったことへの言い訳の側面がある。
死者の数が、第一報が合計1500人以上(侍と奉公人)、第二報が200人以上(侍だけ)、第三報が800人以上(侍と奉公人)へと大きく変化していったのも、政宗の心理から考えてみるとこのようなものだったのではないか。
最初、敵兵とその奉公人たちが1人残らず死んでいたことに驚いた政宗は、思わぬ結果に動揺した。本来は交渉で彼らを捕虜にするつもりであった。死体の数も実際より多く見えて、義光には過大に表現してしまった。