殺したのは「200人」から「1500人」まで、証言が異なる

なぜ同じ人物の証言が異なっているのか?

他家の大名、家臣、地元の僧侶、それぞれで伝える情報が部分的に異なっている。

これはまるで映画『ダークナイト』(2008)のジョーカーを思わせる。この作品のジョーカーは、自分の口にある大きな傷跡について、ある人物には「親父は近づいてきた。“そのしかめツラは何だ?”俺の口に刃を入れ──“笑顔にしてやるぜ”」と父親にやられたものだと告白し、また別の人物には「カミソリを口に入れて裂いた、自分でな」と自傷であることを告白して笑っている。

すると、政宗はジョーカーのようなサイコパスだったのだろうか?

まず最初に事件を伝えた最上義光は、外側の大名である。戦果連絡に誇張を交えるぐらいでちょうどいい。

受け取る側も「誇張や粉飾があって当たり前だ」と思っていることだろう。そこを踏まえて、少しでも大袈裟に伝えることが常識だった。

いっぽうで、家臣に書き送った書状では、殺害人数を「200人以上」と、義光に知らせた人数の4分の1に減らしている。たった1日でこんなに人数が変わるのは少し不思議だ。

写真=iStock.com/MasaoTaira
現在の二本松城(※写真はイメージです)

政宗は「殺害させた」と言うが、その場にはいなかった可能性

それに、「実数は把握していない」と書いてあることも気にかかる。まるで、「俺はたくさん殺害させたが、詳しいことや具体的なことは知らない」ととぼけているようでもある。

それでも「満足したことにする」と述べているように、事実関係を曖昧にしたまま、作戦を落着させようとする様子がうかがえる。

そして翌月、地元の僧侶に宛てた書状では、人数を義光と信康に伝えた人数の中間ほどに調整して、「800人以上」を殺害したと伝えている。敵の家臣以外の男女も区別なく殺害したことも述べているが、義光宛書状で触れていた子供や犬の撫で斬りについては言及がない。

小手森城の撫で斬り事件は、このように政宗自ら発した情報ですら、大きな揺れがあって整合性を取れていない。

現在の通説は、これらの話のうちもっとも印象的な表現を情報源にすることで、「政宗は小手森城を落とすと、その成人男性だけでなく、女性と子供と犬までも撫で斬りにした。合計1000人以上が殺害された」ということになっている。

果たして真実はどうなのだろうか。ここで別の二次史料(後で書かれた記録)に目を向けてみよう。