物価高で客が遠のいた吉原を盛り上げる

安永元(1772)年、10代将軍徳川家治に仕える田沼意次が側用人と老中を初めて兼任した。しかし、世間は物価高に振り回され、「年号は安く永しと変はれども 諸色高直今にめいわ九(年号〔元号〕は明和9年から安永元年へと変わったが、諸物価は高く、今まさに迷惑している)」と狂歌に詠まれる世相だった。

こうなると、人は安価で手軽に気分を発散できるものに流れる。性風俗においては江戸の南東(辰巳)の私娼街・深川の遊郭が流行し始めた。

一方、公娼街の吉原は客を呼び戻すためのキャンペーンを張る必要があった。遊女屋や引手茶屋が一丸となって伝統行事を復活させ、田沼時代の恩恵で富裕になった町人や町人化した武士を巻き込み、吉原を盛り上げていった。

その頃、前項のとおり新たな吉原細見本の版元になり、事業を拡大していく過程にあった蔦重は、行事があるたびに出版物を刊行し、吉原内外への情報発信を積極的に行った。

吉原の女たち(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

優れた自己認識力と自己プロデュース力

蔦屋重三郎は、「蔦重」という役を演じ切る人生だった。

彼が生まれ育った吉原は、そもそも嘘を含む色恋を売る場所。買う側も、それが僧侶なら医者に化けるために羽織を着ていったほどだ。

また、元吉原(現在の中央区日本橋人形町)から移転した際、新吉原には従来の昼営業にくわえて、夜営業の許可が幕府から出ていた。当時は江戸郊外の比較的に寂しい場所だったということもあり、昼だけでは娼家が成り立たなかったからである。

吉原の表玄関の大門は、千客万来の意味を込めて昼夜開けっ放しで、1年のうち休日は元日と7月13日のみだった。

両親の離縁という事情で、7歳から引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川(北川)家に養子に出された丸山柯理(蔦重の幼名)は、吉原遊女と同じように虚像としての「蔦屋重三郎」を昼夜を問わずフル稼働で演じたのではないだろうか?

彼は自己認識力と自己プロデュース力に長けていた。

下級町人、しかもグレーゾーンの吉原出身だ。普通のことをしていたのでは、日の当たる場所で堂々と活躍できない。

その頃の吉原は江戸唯一の公娼街であり、大名や幕臣(旗本・御家人)、藩士、武家奉公人、大商人の主人から番頭・手代、裏長屋に暮らす一般庶民まで、あらゆる階層の男が通う交差点のような場所だった。

そこで、すべての男に気に入られるだけの度胸と愛嬌をもって、教養と人脈を得ることができればチャンスである。さらに、吉原の遊郭内で主導権を握る遊女・女将・やり手婆などの女性たちを、惚れ惚れさせるような「粋人・通人」たる雰囲気を纏えばますます強い。

その出自から決して有利ではなかった蔦重が、立身出世のためにとった手法は、吉原という地に集まった人々から信頼を得ることだった。