2025年NHK大河の主人公は、大衆的な娯楽本や浮世絵の出版を手がけ、喜多川歌麿や東洲斎写楽、葛飾北斎らを見出した蔦屋重三郎だ。彼が「江戸のメディア王」と呼ばれたのはなぜか。予備校講師・伊藤賀一さんの著書『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』(Gakken)より、一部を紹介する――。

両親の離別で養子に、家族は謎だらけ

大御所の有徳院(元8代将軍徳川吉宗)が、嫡男である9代将軍家重の後見をしていた寛延3(1750)年1月7日。蔦屋重三郎は、尾張国(現在の愛知県北部)出身の吉原(現在の台東区千束)で働く父の丸山重助と、江戸生まれの母・津与の間に生まれた。

幼名はおそらく「柯理」で、読みは不明(「からまる」と読む説があるが、後付けかもしれない)。父・重助の仕事の詳細や、兄弟姉妹の有無も不明である。

7歳のとき、両親が離別したことで引手茶屋「蔦屋」を営む喜多川(北川)家の養子となった。引手茶屋は、男性客を遊女部屋へ案内する茶屋である。

御三家の筆頭、尾張徳川家の領地から江戸に移り住んだ父は、なにか特別な縁故でもない限り、当時の「人材派遣業」「職業安定所」であった口入屋の斡旋を受けた可能性が高い。

口入屋は、主に短期の奉公人や日雇い仕事を斡旋するが、遊郭(公娼街)・岡場所(私娼街)における性産業での仕事を紹介したり、賭場の用心棒を紹介することもあった。

蔦屋重三郎の版元として出版物に登場した物(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
版元として出版物の序文に登場した蔦屋重三郎の肖像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

遊女の案内書「吉原細見本」を売り出す

安永元(1772)年、22歳の蔦屋重三郎は、吉原大門口の五十間道で引手茶屋を営む義理の兄・蔦屋次郎兵衛の軒先を借り、小さな書店を開店した。のちに「耕書堂」と呼ばれる初めての自分の店である。

当初は鱗形屋孫兵衛が発行する「遊女の案内書=吉原細見本さいけんぼん」の販売代理店や貸本屋だったが、江戸時代の書店は版元(印刷物の出版元、本の発売元)を兼ねることが普通で、蔦重も卸売・小売・版元として経営規模を拡大していった。