花魁の独自ガイドブックで業界を席巻

安永3(1774)年、鱗形屋の手代(使用人)・徳兵衛が大坂の版元との間で重板(同じ物を改題して無断で出版する)トラブルを起こして江戸から追放された。主人の孫兵衛も罰金刑を受けて、鶴鱗堂は一時的に吉原細見本を出版できなくなったのである。

24歳の蔦重はこれを機に、各店の「上級遊女=花魁おいらん」の名を実際の花に見立てて紹介する遊女評判記『一目千本』を独自に編集・出版し、その本は上客への贈答品となった。そして、2年後に鶴鱗堂の吉原細見本が復活した後も、この本の話題でもちきりだった。

こうして版元にもなった蔦重は、天明3(1783)年までに鶴鱗堂などから版権を続々と買い取り、販売網も整備し同種の本を『吉原細見』という呼称に統一し、このジャンルを独占することになった。

吉原で育った人間ならではの着眼点

この成功には二つの背景があると思われる。

一つめは、蔦重の『吉原細見』が他の版元の物と比べて優れていたこと。蔦重は紙面から余分な装飾を削り、遊郭の場所や遊女の所属先がすぐにわかるようレイアウトを変更。ページ数を半分に減らす一方で、判型を大きくして見やすくするなど、利用者の使い勝手を徹底的に重視した。吉原で生まれ育った人間ならではの気づきや配慮だ。

二つめは、卸売・小売と並行して、確実に収益が上がる貸本を収入の軸にし、版元になるための投資を可能としたことだ。印刷技術が発達し書写(書き写すこと)に頼らずとも出版が可能になっても、書籍はまだまだ高価で購入できるのは一部の富裕層に限られていた。

また、「読み・書き・そろばん」を教える寺子屋教育が普及し、庶民の識字率が高まったことから「貸本=レンタル業」は十分需要もあった。そして、引手茶屋の養子という立場を利用して遊女屋へ常に出入りし、遊郭の経営者や従業員たちから最新の情報を手に入れ、その情報を活用することで、ヒット作を生み出し、販路を開拓し、事業を拡大することができたのである。

このように蔦屋重三郎は斬新な編集者であり、かつ堅実な経営者としてのディレクションとマネジメントの能力を発揮していった。

写真=iStock.com/Andani GG