作家になることを誓った開成の卒業文集

初めて物語をつくる楽しさを知ったのは、小学校2年生のとき。授業で教科書に載っている地図をもとに、話をつくることになったんです。

そこで私は、浜辺に流れ着いたビンのなかの地図を広げたら、その地図に入りこんでしまい、ピンチをくぐり抜けながら宝をとって元の世界に戻れたといった話を書きました。班の代表に選ばれてクラス全員の前で発表したら、教室は水を打ったように静かに。読み終わったときに「めちゃくちゃ面白い!」って、みんなが言ってくれたんです。それが創作の喜びを知った原体験ですね。

自分のつくった物語をみんなが楽しんでくれて、フィードバックが返ってくるのが嬉しいし、気持ちいいということを初めて知ったんです。

母親からも「よく書けたね」と、褒められました。その辺りの批評は実はかなりシビア(笑)。3年生のときに授業参観で社会科見学の感想文を読み上げたときは、家に帰ったら「『楽しかった』『面白かった』ばかりで、何がどう面白くて楽しかったのか、もっとくわしく書いたほうがいい」と指摘されたんです。

母は元記者。言葉に対して感度が高かったのだと思います。そんな母親からの薫陶を受けたあとだったかな。夏休みのアサガオの観察日記に、アサガオが枯れる様子を「年老いて力をなくしてしおれ、朽ち果てていく」といった表現をしたら、母親がこの描写は素晴らしいと褒めてくれた。嬉しかったです。実は私の小説を読んでも「私はあのアサガオの文章のほうが好き」といまだに絶賛している(笑)。

母親は、うまく書けていなければ指摘するし、美点を見いだせば褒める、といったスタンス。それは私が中学校3年生のときに書いた卒業文集でも同じでした。

実在するサッカー部員たちが開成高校の進学権をめぐり校舎内で殺し合うという、『バトル・ロワイアル』のパロディーを原稿用紙600枚にわたって書いたものです。分量も内容も穏やかではないものでしたが、学校からは何のおとがめもなく卒業文集に掲載されました。

修正指示もしないで載せてくれた学校もそうですが、保護者の方々の懐も深かった。皆さんの息子が殺されているというのに、「うちの子の死に方はカッコ悪いのに、○○くんは仲間を守ってカッコいいじゃない」とか、「○○くんのあのシーンは本当に泣けた」などと、好意的な感想を届けてくれました。

そこで、私ははっきりと思ったんです。小説家になりたいと。

もし事前に学校から掲載を止められてお蔵入りになっていたら、小説家になりたいとも思わなかったかもしれない。ですから、開成の教師陣の判断は、私の人生にとって最大の分岐点だったといえるのです。

その文集に対する母親のコメントは、「小説としては面白いし、卒業文集としては最高だけど、商業デビューするなら、登場人物の描写がないとダメだね」(笑)。確かに登場人物は、全員知っているから名前さえ書けば、説明はいらない。内輪でやるから成立しているだけであって、世に出すなら、この次元ではあかんなと思っていました。悔しいけれど、やっぱり的確(笑)。

この先、私に子供が生まれたら、自分が両親にしてもらったことはしてやりたいですね。本の読み聞かせだったり、欲しいと言われた本は制限なく買い与えたり、できれば自然豊かな環境で育てたい。

書いた文章を辛口批評されたことも、当時はうるさく感じていましたが、今となってはありがたい。自分がやってもらった分を、次の世代に返したいという気持ちです。