総資産1兆円を築いた男の「あっけない最期」

高橋治則は1945年生まれで、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾高校(退学)、慶應義塾大学に進んだ絵に描いたような慶應ボーイ。卒業後は実業の道に入り、バブルで急成長を遂げるが、1995年、理事長だった東京協和信用組合などから自身や元労相の山口敏夫の関連企業に不正融資を行った背任罪で起訴される。2005年、くも膜下出血で倒れあっけなく59歳でこの世を去った。絶頂期、グループ総資産1兆円超を築いた高橋治則だったが告別式の日、棺桶には好物の木村屋のあんパンを4つ入れただけの寂しいものだったという。美食家でもなく洒落っ気もない、生活そのものは質素だったという。ビジネスだけが生きがいのような男だった。

高橋治則の経営は今、振り返れば乱脈経営そのものだった。しかしそれは後講釈にすぎない。当時の高橋治則は時代の最先端を走る新進気鋭の青年実業家と映っていた。戦後日本の重厚長大産業を支えた日本興業銀行(現・みずほ銀行)、日本債券信用銀行と並ぶ名門銀行の長銀がバックについたことで信用力を増し、バブルの波に乗った。1986年、「EIE」を店頭公開し日本携帯電話を設立すると、その勢いで「ハイアット・リージェンシー・サイパン」を32億円で購入、1987年には「ヒルトン・クレスト・ゴルフクラブ」の建設に着手した。

写真提供=共同通信社
バブル期に総資産1兆円超を築いた高橋治則氏(1990年7月27日)

「和製トランプ」の快進撃

同年、オーストラリアで「リージェント・シドニー」を130億円で買収、翌1988年にはイタリアでホテル「リージェント」を100億円で傘下に収めた。オーストラリアでは「サンクチュアリー・コーブ」(527億円)、「ハイアット・リージェンシー・パース」(120億円)を買収した。1987年には香港で「ボンドセンター」の1棟を380億円、ハワイのホテル「ハイアット・タヒチ」を154億円で傘下に収め、「和製トランプ」を地で行った。

この頃の高橋治則の暮らしぶりを身近で見ていた関係者は「1カ月の3分の1は海外で過ごし、ピークの1987年から1990年までは、毎月100億円を動かしていた。世界に最大24のホテルを持ち、7割近くが五つ星だった」と証言する。

3億円で始まった不動産投資は10年もしないうちに1兆5000億円にまで拡大した。