ふたたび高い地位についた伊周
道長が長女の彰子を入内させたとき、彼女は数え12歳にすぎなかった。さすがにこの年齢では、寵愛した定子亡きあととはいえ、現実的に懐妊するのは難しい。しかし、彰子が皇子を産み、その皇子を春宮(皇太子)にしないかぎり、いずれは敦康親王の伯父である伊周が天皇の外戚となる。そうなれば道長は権力の座を追われかねない。
そこで、道長は敦康親王を、当初、養育が託されていた御匣殿から切り離し、彰子に養育させることにした。道長には明確なねらいがあった。
彰子のもとに敦康親王がいれば、天皇は親王に会いたいために彰子のもとに通い、懐妊の可能性がでてくる。よしんば彰子が皇子を産まず、敦康親王が即位したとしても、彰子が養母、道長が養祖父ということになれば、伊周らを排除したまま、道長が新天皇を後見できる可能性が生じる。
だが、呪詛が力をもつと信じられていた当時のこと。道長は追い落とした伊周に、恨みをいだかれ続けるのが怖かった。一方、一条天皇は伊周らの中関白家を、天皇の外戚らしい地位に戻す必要性を感じていた。
こうして長保5年(1003)、伊周は従二位になり、寛弘2年2月25日には、座次が正式に「大臣の下、大納言の上」と定められた。
冷静でいれば、逆転の目もあった
ふたたび参内し、朝議にも参加するようになった伊周に対して、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』によれば、公卿たちの反応は冷ややかだった。とはいえ、伊周は公卿たちにとって、無視できる存在ではなかった。
それまで第一皇子が皇位を継承しなかった例はなく、敦康親王は高い確率で近い将来、即位すると思われた。そうなれば、天皇ともっとも血筋が近い貴族は、叔父の伊周になる。昼は道長に仕えながら、夜には伊周の屋敷に参上する公卿たちが現れるのも、当然のことだった。
だから伊周も、前のめりにならずに冷静でいれば、逆転の目もあったかもしれないが、彼にはそれはできなかった。
寛弘4年(1007)8月、道長は山岳修験道の聖地である金峯山(奈良県吉野町)に詣でて、彰子の皇子懐妊を祈った。『大鏡』には、このとき伊周が不穏なことを企てているとの情報があり、道長が警戒を強めた旨が書かれている。歴史物語である『大鏡』の記述を、すぐに史実とは受けとれないが、『小右記』をまとめた『小記目録』にも、伊周らが「相語らいて左大臣を殺害せんと欲する間の事」と記されている。