修羅場を踏んで学ぶ、という幻想もある

【中原】「叱らないとわからない」の先に「発奮幻想」というのもあります。たとえば、企業研修の最後に社長が出てきて発破をかけると、意識変革が起きてみんな目をキラキラさせるように変わるに違いない、という幻想です。こういう夢みたいな幻想を抱いている人が、教員のなかにも親にもいますが、そんなことは起こりません。イリュージョンです。

「人は修羅場に追い込まれてタフな経験をすることで学ぶんだ」という「修羅場イリュージョン」もありますね。企業の人事セクションの人たちのなかには、「修羅場」という言葉が好きなひともいます。経験学習という言葉をすごく狭く捉えて、切迫した危機的経験をすることで成長する、と思っているのでしょう。企業の人事のミーティングとか、1日カンファレンスなどに呼ばれて行くと、よく「修羅場を踏んでこそ」というトーンの話を耳にします。

【村中】どういう状況で修羅場をくぐることになったかにもよりますよね。本人が自分で選択してやったことの先に修羅場があったような場合は、それが運よく成長のバネになるようなこともあり得るかもしれません。しかし、他者から意図的に修羅場を与えることによって得られるメリットはまずないです。

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修羅場経験よりも、ダメージをどうリカバーするか

【中原】修羅場イリュージョンの背景には、おそらく成功を収めた経営者が語る修羅場的経験譚なんかが関係しているんじゃないかと思います。「あなたを大きく成長させた経験は何ですか」と問われると、長く第一線でやってきた人はドラマチックなエピソードを豊富におもちですから、武勇伝をいろいろ披露してくれます。

しかし、そういう私的経験を「修羅場=人を成長させる原資」と捉えるのはお門違いなんです。よく考えてみると、そういう人たちは苛烈な生き残り競争に勝った一握りの人であって、実は修羅場のかげには死屍累々ししるいるいの山ですからね。にもかかわらず、生き残った成功者にスポットライトを当てたストーリーが「修羅場をくぐらなくては成長できない」という話に置き換えられてしまう。「修羅場イリュージョン」は、いわば「生存者のバイアス」に他なりません。つまり、失敗者や死屍累々の山を見ずに、生存できた成功者の言葉だけを偏って信じてしまうのです。

苦痛にしても、修羅場にしても、一番大事なことは、激しいダメージを受けたとき、どうリカバーするか、どうすれば再起のチャンスが得られるのかであって、苦痛や修羅場を味わうこと自体ではありません。

【村中】私もまったく同感です。本当に典型的な「生存者バイアス」ですよね。こういったイリュージョン的な社会通念、囚われから抜け出してもらわないことには、「叱る」という概念への意識改革は進まないんです。