北里は「おいにはもう業績は必要なか」と志賀潔の単名論文に

驚く志賀に「志賀が泊まり込みばして見つけた菌だから、第一等の功績は志賀にあるたい。それにおいにはもう、業績は必要なか」と北里は笑った。

海堂尊『よみがえる天才7 北里柴三郎』(ちくまプリマー新書)

こうして明治30年12月25日、私立伝研の医学誌『細胞学雑誌』に志賀の赤痢菌発見の論文が掲載され、翌年1月にはドイツ語の論文が欧米誌に掲載された。

北里の師コッホは、結核とコレラ以外の業績は担当した部下のものにした。そのためレフレル、ガフキー、ブリューゲルに北里を加えたコッホ四天王が生まれたのだ。

「北里四天王」を生みたいという願いは、北島多一、志賀潔、秦佐八郎、宮島幹之助が現れて叶い、北里は「東洋のコッホ」と呼ばれるようになった。

志賀潔が赤痢菌発見者の栄誉を得たことは好影響を及ぼした。北里は弟子の業績を横取りせず、自分が励めば業績は自らのものになるというメッセージを示したのだ。

度量の広いところを見せ「北里四天王」は世界的に認められた

このことは、北里の大度量を示すものとして絶賛された。志賀の『エールリッヒ伝』では「Geld, Geduld, Gluck, Geschick」(金、忍耐、幸運、器用)という「4つのG」が学問で重要だと述べている。欧米の師エルリッヒの言葉は、コッホ研究所から北里にも引き継がれた金科玉条だったのだ。北里は積極的に部下に海外留学をさせた。

コッホ研究所の同僚でノーベル賞受賞者のパウル・エルリッヒのフランクフルトのエルリッヒ研究所に留学した志賀潔は、1904年原虫トリパノソーマに作用する色素を、秦佐八郎は梅毒スピロヘータの特効薬「サルバルサン606号」を発見した。

北島はベーリングの許で結核治療血清研究をしたが、成果は出せなかった。

だが帰国後、蛇毒血清の開発で、伝研の第1回浅川賞を受賞している。

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