髪の毛が混入した牛乳を届けられた福沢諭吉は激怒した

衛生学者としての手腕に疑問符がつき、細菌学者・北里の凋落が始まった。

明治29年10月、北里は芝公園に国立「血清薬院」を設立し、官営事業を開始した。それと同時に、伝研における血清製造部門を閉鎖した。

それは伝研国有化への布石だった。だがそれは、伝研で軌道に乗り、収益が見込める血清事業を国有化することを先行させるわけだから、北里の国家への献身とも見える。

ドイツではジフテリア血清を樹立したベーリングは特許を取り、個人の収益にした。

日本でも明治18年に特許法が成立していたので、同じ事ができたはずだ。北里がそうしなかったのはいかに金銭に恬淡てんたんとしていて、北里がただ国民の健康を願っていたことの証しだ。

北里はなによりも公益を重んじたのである。

だがその頃、北里の私生活には緩みが見えていた。

同じ月には、後見人の福沢を激怒させた「不潔牛乳瓶事件」が起こる。福沢は養生園の隣地に住み、毎朝牛乳を供されていたが、中に髪の毛が混入していたのだ。福沢は「生活に緩みがあるから不祥事が起こる」と田端事務長に叱責の手紙を書いた。

その中身は北里に向けられたものだった。

福沢諭吉、1891年頃の写真。福沢研究センター
福沢諭吉、1891年頃の写真。福沢研究センター(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

北里は芸者遊びが好きで、大金をつぎ込みトンコを身請け

「北里による新橋トンコの身請け」という半年前の新聞の醜聞記事に起因したもので、艶福家の北里は「半玉はんぎょく(芸者見習いの若い娘)泣かせの三傑」と新橋界隈で呼ばれ、とん子は伊藤博文公と競った末の落籍だった。その費用が、養生園の収益から流用されていることは明らかだ。

とん子は発展家でオッペケペー節で名を上げた「自由童子」川上音二郞に熱を上げた。その音二郞を支えたのが名妓めいぎ貞奴さだやっこで、貞奴に入れあげたのが福沢の娘婿むすめむこの福沢桃介という複雑な関係だった。それはコッホが若い女優に入れあげたスキャンダルと似ていた。

ただしその恋愛の顚末は真逆で、コッホは糟糠そうこうの妻と別れ若い女優と結婚し、北里は新橋芸者と別れ妻と添い遂げたのだった。

だが北里には常に強運がついて回った。明治30年、窮地の伝研に神風が吹いた。

私立伝研における最も華々しい業績、志賀潔の赤痢菌発見である。