北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所の黄金時代

明治27年12月27日、北里は内務省を依願免官し、大日本私立衛生会・伝染病研究所の所長専任になった。前後、私立伝研に北里の人柄に惹かれた俊才が集まった。第一期の石神いしがみとおるは海軍に復職し、高木友枝ともえは明治29年に内務技官に転じ血清薬院院長になり、伝研からは姿を消した。明治27年に北島多一と浅川範彦、明治29年に志賀しがきよし、守屋伍造の第二期の英才が入所した。秦佐八郎、柴山五郎作、野口英世等の第三世代の入所はその少し後になる。

北里柴三郎
写真=Science Photo Library/共同通信イメージズ
北里柴三郎

明治27年12月に入所した北島多一は後に北里の右腕となった。北島は明治23年東大医学部に首席で入学し、首席で卒業した秀才で帝大を担う人材だと目されていた。北島はペスト調査団歓迎会で北里の演説を聞いて感動し、伝研入所を考えた。帝大内科教授の青山胤通は慰留したが決意は固く、帝大一派は絡め手から懐柔を考えた。北島の父は軍属なので小池医務局長の娘を娶らせることにしたのだ。

ところが当時『あざみ』という評論誌が、ひどい北里攻撃をしていた。その雑誌は青山、陸軍の小池、森が組んで出していると知り、北島は結婚を諦めた。だが青山に「今は北里と喧嘩をしているが、1年くらいで仲直りしようと考えているから支障はない」と言われた。

北島は4月、陸軍サロンの偕行社かいこうしゃで園遊会形式の披露宴を開き、北里も出席した。岳父となった小池は北島に手紙で、伝研を辞めて東大に移るように説得したが、ダメで、京都大学の教授職も勧めたりしたが、全てムダだった。

【図表2】明治期におけるコレラの患者数及び死亡者数の推移
出典=厚生労働省「平成26年版厚生労働白書

コレラの流行で成果が出せず、北里への批判が強まっていく

伝研の黄金期と呼ばれた数年は、陰りが見え始めた時期でもあった。

それが露呈したのが明治28年の東京のコレラの流行である。コレラは明治9年に患者が16万人という最大の流行後、明治15年に5万人以上、明治19年に15万人以上、明治23年に5万人と、周期的に大規模流行を繰り返した。明治28年には5万5千人のコレラ患者が発生し、死者は4万人に達した。この時、私立伝研はコレラ免疫血清を使用したが、患者193名中死亡64名という、あまりぱっとしない結果に終わった。

その頃、東京試験所所長を辞任した中浜東一郎は北里に対する批判を強めた。「上筆ヶ岡養生園で賄いの利は福沢、席料の利は長与、薬価は北里の利としているために、利を守るため中立公平な自分が煙たいのだ」と喝破かっぱした。

明治29年にはジフテリアとコレラに対する北里の血清治療を学会で痛烈に批判した。伝研のデータは血清療法を有効に見せるための捏造ねつぞうである、と指摘し、中立的な学者は「流石の北里も顔色なかりき」と、中浜に軍配を挙げた。

実際、北里が主張する治療成績は再現性がないことが多かった。日清戦争後の検疫で使用した、コレラ治療血清が期待外れに終わったのが象徴的だ。