大げんかをして決別した三菱創始者・岩崎弥太郎の孫娘だった

ところが、渋沢栄一は頭を抱えた。登喜子の母は、三菱の創始者である岩崎弥太郎の次女。つまり、溺愛する孫の結婚相手がこともあろうに、あの岩崎弥太郎の孫娘なのである。栄一と弥太郎はどちらも明治を代表する経済界の重鎮であり、栄一が岩崎弥太郎の協力を得て東京海上保険会社を創設したこともあったが、経営についての考えが相容れず大激論となって、以来、不仲だった。

栄一の前半生は大河ドラマ「青天を衝け」(NHK)でも描かれたように、激動でかつ本人も血の気が多かったのだが、晩年は家族に優しい好々爺こうこうやだったようだ。結局、弥太郎の孫といっても「岩崎家の人間じゃなく、木内家の人なんだから」という妙なリクツで許したらしい。なんか曖昧な決着で、いかにも日本人らしい。

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昭和天皇との会食を終え退出した渋沢栄一(右)。左は付き添った孫の渋沢敬三=1929年12月19日、宮内省玄関前(日本電報通信社撮影)

渋沢栄一が譲歩したのは、渋沢敬三に進学希望を諦めさせた負い目があったからではないか。敬三は本当は動物学者になりたかった。

敬三は旧制第二高等学校の英法科に進んだのだが、どうしても動物学を学びたい気持ちが抑えられず、祖父・渋沢栄一に理系の学科への転部を願い出た。

敬三は旧制高校時代に「理転」したいと祖父に懇願した

栄一はいろいろな企業を興したが、最初につくった第一銀行(旧・第一国立銀行。第一勧業銀行を経て、現・みずほ銀行)に強い思い入れがあったようだ。三男から五男を大学卒業後に銀行に就職させている。ところが、みんな入行2~3年でやめてしまった。三男は航空機製造、四男は造船会社から自動車製造・製鉄会社とメーカー好きで、五男は都市開発会社から東宝に転職した。

嫡男の篤二もそうだったが、栄一の息子たちは、あまり創造性が発揮できない銀行業には不向きだったのだ(栄一自身もクリエイティブ人材なんだから、実際は銀行業務は不向きだったのだろう)。しかし、栄一としては渋沢家の跡取りを第一銀行の頭取に据えたかったのだろう。だから、かわいい孫・敬三の望みを聞き入れて、動物学者にする訳にはいかない。

敬三はその時のことを述懐する。

「そのうち祖父(栄一)とメシを食うことになって会ったら、祖父はまじめな顔をして、お頼みすると言い出した。頼むと言った。お前の言うことはわかっておる。悪いとは言わんけれども、おまえもおれの言うことを聞いてくれといわれた。あれだけの人物から本気になって、ほんとうに頼むと言われると、ホロリとなっちゃう。それで、しょうがありません。承知しましたと言ってから、不意に涙が出て困ったのを覚えて居る。すると祖父はホロリと涙を出した」(『渋沢敬三』)。

ホントは動物学者になりたかったけど、渋沢栄一の孫に生まれたから、やむなく家業の銀行を継いだ。ただ、そこから先がすごかった。