第一銀行副頭取から日銀総裁へとエリート街道をばく進
渋沢敬三は東京帝国大学経済学部を卒業。横浜正金銀行を経て、29歳で第一銀行取締役に就任、45歳で副頭取に就任した。第一銀行はおじいちゃんの渋沢栄一がつくった銀行なので、これはコネによるものだろう。だが、その先がスゴイ。
1942年3月、第二次世界大戦勃発で日本の金融界が混乱する中、日本銀行副総裁に引き抜かれる。これには当人も辞去し、第一銀行の重役たちも「これは跡取り(息子)だから、養子にくれというのはひどい」と大反対。最後には内閣総理大臣・東条英機が出馬して、サーベルをガチャガチャさせながら、半ば脅して承知させたという逸話が残っている(これだから東条英機は人気がない)。
1944年3月に47歳で日本銀行総裁に就任した。これは思いがけず親孝行になった。母・敦子が泣いて喜んだという。「第一銀行の頭取(実際は副頭取)になるのは親の七光りであるけれども、祖父(栄一)が死んで十年以上たって、とつぜん日銀に迎えられたことはたんなる親の七光りだけではない。これで自分も冥土へ行って、父や祖父にあわす顔がある」(『瞬間の累積』)。
マネジメントに優れた敬三は、終戦後に大蔵大臣に
そして、翌1945年8月に日本は敗戦。同年10月に幣原喜重郎が総理大臣として内閣を組閣すると、敬三に大蔵大臣としての入閣を懇望。49歳で大蔵大臣を務めた。
つまり、40代後半で、民間銀行の副頭取、日本銀行総裁、大蔵大臣を総なめした金融界のトップなのである。
しかし、本人は「私は実業に志してはいなかったので、銀行は大切だと思いましたが面白いと思ったことは余りありません。しかし、真面目につとめておりました。が、人を押しのけてまで働こうという意志もありませんでした」と語っている。
では、そんな渋沢敬三がなぜこんなに評価されたのか。実はマネジメント能力に優れていたという証言がある。
親友の中山正則は座談会で「それ(マネジメント)は、やつ(敬三)の本職だよ。(友人たちと旅行をすると)よその掛け合いだって何だってかんだって(敬三が一人で)みんなした。好きなんじゃないのかな。性格的にもそういうところがありました。世故にたけていた。世情に幾らか、おたくのナンで苦労、修練を積んだんだろうね。僕らの知らないことを、よく細かく気がついて、実に綿密に、細かく用意周到でしたよ。人事でもなんでもかんでも、実に細かく注意行き届きましたね。周到なる用意とか、配慮とか、そういうことはわれわれ学ぶべくもなかった」と述懐している(『渋沢敬三』)。